城下町として整備された町割が碁盤の目状であることなどから、但馬の小京都と呼ばれ、豊岡市出石伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
大手前通り。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。
辰鼓櫓
櫓本体は1871年(明治4年)完成。
辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓を叩く櫓であった。
旧藩医の蘭方医、池口忠恕が大病を患った際、多くの人々が病気快癒の願掛けをした。
忠恕は回復後、病気中出石の人々に多大な精神的支援を受けた感謝の意思を形にしたいとして、時計技師2名を招くとともにオランダ製の機械式大時計を取り寄せ寄贈した。
これによって1881年(明治14年)より現在の姿の時計台となった。
以後、弘道小学校では機械式時計の錘(おもり)を掛け替えるのが児童の大事な役割となった。
現在は時計本体は入れ替えられている。
出石そば
江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされる。
現在は割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされる。
昭和30年代(1955年~1964年)に「出石皿そば」として現在見られるスタイルが確立された。
伊藤清永美術館(いとうきよながびじゅつかん)は、兵庫県豊岡市出石町にある美術館。
豊岡市出石町出身の洋画家の伊藤清永などから作品の寄贈を受け、その保存研究と顕彰を目的として1989年に出石町立伊藤美術館として開館した。
家老屋敷も同敷地内にある。
仙石騒動の中心人物の一人である仙石左京の屋敷跡に建つことから左京屋敷とも呼ばれる。
大名行列絵図。
奴さんでおなじみ金紋先箱。
大名行列の衣装や道具、サスマタなどの武具が展示されている。
子供大名行列 家老の衣装。
ヤリ
大名行列の先頭を行く白熊の毛。
清水屋敷模型
仙石久道の4女、多喜姫が住んでいたとの事。
歌会や茶会などが催されたそうです。
当屋敷の外観は平屋建に見えるが、内部には隠し階段が仕組まれており、2階建である。 刀を使い難くするためか天井は低く造られ、屋根上への通路も存在する。
これらは、襲撃に備えて造られたものと推定されている。
2階の部屋には丸窓があって、階段を登ってくる人がいるか座ったままでも確認できるそうな・・・
家老屋敷より有子山城址を望む。
資料館(豪商の屋敷)
母屋、離れ、土蔵で構成される1870年代築の豪商の旧邸を出石町が譲り受け、1977年に当館の施設として公開した。
館内には仙石騒動や藩政の記録をはじめとする出石藩関係の史料、古地図、武具、茶臼山古墳からの出土品等を展示し、江戸時代を中心に古代から近代までの出石の歴史を紹介している。
囲炉裏のあるこの部屋は、日常生活の中心となっていたと思われる。
突き当りには箱階段が見えている。
上部の大きな神棚は必見。
蛤御門の変に破れた後、京を追われた桂小五郎は、元治元年(1864)広江孝助と名乗り、荒物屋をしながら幾松婦人と出石に潜伏していました。
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江戸時代中期築の酒蔵
長い年月を経た赤い土塀が歴史を感じさせます。
季節の変化で、土壁の色も微妙に変わるといわれています。
その昔、時の藩主から「女にも年寄りにも飲める酒を造れ」と命じられ、苦心して醸造したところ、いたくお気に召され「名前を(緑)にせよ」と書付にカツオをつけていただいた、とのこと。
辰鼓櫓と但馬の小京都と呼ばれる出石町の街並みが描かれている、電気マンホールの蓋。
出石へのアクセス、行き方歩き方
兵庫県豊岡市出石町内町
山陰本線および北近畿タンゴ鉄道 豊岡駅から全但バス「出石行き」で20分、終点下車