人目忍んで、逢瀬を重ねた 夢二寓居跡

産寧坂へ続く、約200mの石段。
周辺は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されていて、道沿いには虫籠窓の京町家が残る。
竹久夢二が一時期暮らした寓居跡があることでも知られる。

大正4年(1915)に結ばれた二人は互いに「山」、「川」と呼び合いつつ人目を忍ぶ逢瀬を重ね、ついには大正5年京都に逃れた夢二を彦乃が追うようにして訪れ、短くも至福の日々をこの地で送ったのである。

夢二は、彦乃が訪れるまでの数ヶ月間をこの家で過ごしている。
隣にあるおしるこ店「かさぎ屋」には、彦乃とともにしばしば訪れている。

大正時代の代表的な画家・詩人竹久夢二が、京都で下宿したのは1917年(大正6)2月。
部屋は2階の2間。

愛情問題のもつれから東京を逃れてのこと。
2ヵ月後、北の高台寺南門前へ移り、愛人彦乃と生活した。

笠井彦乃は1896年、今の山梨県身延町生まれ。
一家は上京し父宗重が日本橋で紙問屋を営業していた。

1914年秋、新進作家として人気が出ていた夢二に絵を教えてほしいと申し込んだのをきっかけに愛し合うようになる。
しかし、夢二には岸他万喜との離婚歴があり、宗重に結婚を反対される。

17年2月、夢二が次男不二彦を連れて京都へ引っ越すと、彦乃は6月に京都へ行き同棲を始めた。
だが、体が弱く体調を崩すことが多くなる。

旅行中の夢二に会うため向かった別府で倒れた彦乃は宗重に連れ戻され、京都、東京で入院。
夢二と引き裂かれたまま20年、結核のため亡くなった。
彦乃は満23歳、夢二は35歳だった。

産寧坂へ続く石段の手前に寓居跡がある。
人通りの多い場所でうっかりすると通り過ぎてしまう。

夢二が好んで描いた黄八丈の着物を着た女性は、夢二が愛した女性、彦乃だと言われています。

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夢二寓居跡へのアクセス、行き方歩き方

JR京都駅→市営バス206号乗車→約20分→清水道下車→徒歩10分。
京阪電車→四条河原町駅(終点)下車→2番出口→市営バス207号→東山安井下車→徒歩10分。