京都御所の東北角は鬼門とされ、築地塀の角を欠いて日吉山王社の神のお使いの猿を祀っています。この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。
幕末には、尊皇攘夷派の姉小路公知が何者かに襲われた「猿が辻の変」はこのあたりで起こった事件です。
同志社大学前にある今出川御門から南へたどると御所の築地塀に突き当たる。
塀に沿って左(東)へ道をとり、塀が尽きた角にあたるところが御所の建物の東北角、鬼門である。
鬼門除けに直角ではなく、L字型に隅をわざと欠いて鬼門除けにしてある。
その築地屋根の下の蟇股(かえるまた)に金網で囲まれて一匹の猿が閉じ込められている。
かついだ御幣の白さで目をこらすと、確かに烏帽子をかぶった猿が浮き彫りにしてある。
猿は比叡山東麓の王城鎮護の寺である比叡山延暦寺の地主神・日枝神社の使いで、御所の鬼門を守っていたが、この猿は夜な夜なその辺りをうろついていたずらをしたので、金網の中に閉じ込められたのだという。
この猿にちなんで、鬼門のある辻は猿が辻と呼ばれている。
猿は災いを去るにつながった。
幕末、京都で尊王攘夷の血なまぐさい嵐が吹き荒れた。
公家たちもまたさまざまな思惑で動いていた。
文久三年(1863)には朝廷でクーデターが起こり、長州藩系の公家が追放されていた。
いわゆる七卿落ちである。
慶応元年(1865)五月、攘夷派の急先鋒であった姉小路近知がこの辺りにさしかかった時、襲われ暗殺されたが、これを猿が辻の変という。
公家たちは武家政権の登場以来、政治活動を長く封じられてきたが、今こそ平安王朝でつちかった魔力を発揮しようと水を得た魚のように暗躍したのだった。
そんな歴史上の出来事を見つめてきた猿は何も知らなかったかのように、屋根の蟇股(かえるまた)鎮座したままである。
東北の方角を仰げば、比叡山が望見でき、その山すそでは赤山禅院の猿が御所を見ている。
御所の一本道の怪
御所には通称「一本道」なるものが通っている。
これは、いわば自転車による踏み分け道。
ケモノ道である。
同じ轍をトレースして自転車が走るうち自然に砂利が脇に掃けて地面が露出した巾5センチほどの御苑内専用道路といえよう。
ソールに溝があったり革底の靴を履いているときは、ちゃっかり利用させてもらったりもする。
一本道はある種の御所名物といってもいいかもしれない。
ひょっとして今日びの百鬼夜行は自転車で徘徊しているのではないかと思うくらい奇妙なエピソードも多い。
忘れられないもののひとつに蛤御門から入って梅園の方向に折れていた一本道がある。
辿っていったところ、どういうわけだか道が途中にある「白雲神社」の中へと続いていたのだ。
よほどの台数がトレースしないと一本道は生まれない。
弁財天を祀る小さな社の境内はとてもじゃないが自転車に乗ったまま走れない。
れは、いまでも不思議である。
内裏をめぐる白塀の西南角にそびえるー清水谷家の椋」の周りでも奇妙な一本道を私は見ている。
一言でいえばミステリーサークル。
樹の周りを二重に取り囲んでいた。
誰かの悪戯にせよ一本道ができるまでグルグルするとなると並みの根性ではない。
普通はバターになっちゃうんじゃなかろうか。
やはり京都の自転車族は、どこか計り知れない。
これは人から聞いた話だが、ときおり”行き止まり”の一本道があるのだという。
彼は乾御門から自転車で乗り入れ、まっすぐ東に向かっていたそうだ。
ちょうど右手に御所内・飛香舎(ひぎょうしゃ)に至る朔平門(さくへいもん)見えたあたりでタイヤから伝わる感触が変わった。
一本道を踏み外したのかな、と振り返ると通りのど真ん中で唐突にそれは途絶えていたらしい。
完成している一本道が途中で消えるということは、何十何百という自転車族がそこまでは漕いできておきながら、あとはハンドルを押して歩いたということだ。
なぜ、そんな気になったのだろう。
なにが、そんな気にさせたのだろう。
彼は予定を取りやめ、そこから引き返したという。
京都御所へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市上京区京都御苑内
問合せ・申込先宮内庁京都事務所参観係
電話075-211-1215
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