上杉鷹山のすごさを感じる 米沢城址

東北

米沢城は、伊達氏、上杉氏の居城で、松岬城、舞鶴城とも呼ばれた。

米沢城の起源は、暦仁元年(1238)に地頭長井時広が築城したと伝えられるが、判然としない。

城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。
戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。

江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。

輪郭式に本丸から外側へ二ノ丸、三ノ丸を構え、10基の櫓と17棟の門が開かれた。
上杉氏築城当時30万石の大名の居城であって、石垣や天守は構えられず、土塁を築き本丸に2基の三階櫓を建てて天守の代用としていた。

米沢城本丸跡の南東部。
高台になっているのが分かります。

舞鶴橋 【国登録有形文化財】
1886(明治19)年築。米沢城本丸跡の堀に架かる石造橋で,上杉神社への参道となっています。

本丸南東隅の高台への階段。

招魂碑が建てられたのは明治11年4月、戊辰戦争および西南戦争(明治10年)で戦死した郷土の人を慰霊するためのものでした。

上杉謙信祠堂跡
越後の虎、軍神と称された戦国大名・上杉謙信は天正6年(1578)に越後春日山城で亡くなります。

その遺骸は甲冑を着せカメに収め、漆で密封して葬られたそうです。

謙信の後継者・上杉景勝が米沢へ移封となると、謙信の遺骸は米沢城内の高台に移され御堂を建てて安置されます。

歴代藩主の位牌も祀られる等、この場所は江戸時代には最も神聖な場所として祀られています。

謙信は米沢藩主ではありませんでしたが藩祖として崇敬の念を集めたそうです。

しかし、明治4年に廃藩となると米沢城は廃城となり、謙信公の遺骸は歴代藩主の眠る上杉家墓所に改葬されます。

米沢城跡には現地に残る謙信の魂を祀るために上杉神社が建立され、祠堂跡には碑が建てられました。

上杉神社。
米沢城(よねざわ)の本丸跡。

振返れば後方の山並みは雪をかぶりまだ春遠しと言ったところ。

明治7年(1874年)には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。
明治9年(1876年)、謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社を現在の地である本丸跡に移した。

上杉鷹山公。

米沢はキリシタン大名 蒲生氏郷が支配奥州仕置後に蒲生氏郷(がもう うじさと)が60万5千石を与えられると、米沢は支城として蒲生郷安が入居し松ヶ岬城と命名。

氏郷が亡くなると秀行が13歳で家督を相続するが慶長2年(1597年)に内紛が起き、秀吉に統制能力がないと見なされ宇都宮18万石に減封。

蒲生氏の米沢支配は7、8年で終わった。

会津120万石から米沢30万石へ

上杉家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で西軍側につき戦ったため、慶長6年(1601年)7月26日に上杉景勝は大阪城で徳川家康に背いたので120万石から30万石へ削封されてしまった。

貴重な金の調達場の佐渡の金山も失い禄を3分の1に減らされ、越後時代から居た家臣や社員・およそ6千余りがそのまま景勝に従い米沢へ移ったため、財政が困難になり大変苦しい時代を迎えた。

上杉家存続の危機と15万石の削封

さらに上杉家3代・綱勝(つなかつ)には、子も養子もいない状況で腹痛で急死したため、跡継ぎがいない上杉家は幕府により改易されるのが当時のルールだったが、上杉家存続のため会津藩主・保科正之(ほしな まさゆき)の尽力により綱勝の妹・参姫と吉良義央との間に生まれた子の綱憲(つなのり)を、上杉家の養子にすることにより上杉家の存続を認められた。

しかし領地の15万石を取り上げられてしまいさらに苦しくなった。
吉良義央(きら よしなか)とは『忠臣蔵』で有名な吉良上野介(きら こうずけのすけ)のこと。

『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も』
上杉鷹山公は借金返済のため、自らの給料を削減し、当時の下級武士以下の生活だと言われている『一汁一菜』の食事をし木綿の服を着て、自ら藩の手本となって大倹約を行った。

伊達家17代・伊達政宗の誕生の地。
今では米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は伊達家が米沢を支配していた。

伊達政宗・幼名・梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567年)8月3日に父・輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。

政宗は会津の葦名氏等を破り、戦国大名として飛躍するが、天正19年(1591)に豊臣秀吉に命により、岩出山城(宮城県)に移され、青春期を過ごした米沢を去った。

母は最上義光の妹の義姫(よしひめ)。

上杉鷹山は1751年に日向高鍋藩主である秋月種美の次男として生まれます。

高鍋藩秋月家は学問を尊重する家風で鷹山も幼き頃より優れた教育環境の中で育ちました。

そして鷹山が14歳の時に生涯の師と仰ぐ細井平洲(ほそいへいしゅう)と出会います。
細井平洲は高名な儒学者で、数ある儒学の良い点を取り入れた折衷学の学者でした。

鷹山は平洲より君主の何たるかを学び、国家の繁栄のための基礎を身につけます。

そして鷹山が17歳の時に米沢藩上杉家の第九代藩主として家督を継ぎました。
鷹山は、その時の決意を和歌にして残しています。

『受けけつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母』

民主主義という言葉が無かった時代にわずか17歳の若き君主が、為政者はその土地に暮らす人々の事を第一に考えないといけないと誓ったのです。

上杉謙信公の家訓16か条。

 ・心に物なき時は心広く体泰(からだやすらか)なり
 ・心に我儘なき時は愛敬失わず
 ・心に欲なき時は義理を行う
 ・心に私なき時は疑うことなし
 ・心に驕り(おごり)なき時は人を教う
 ・心に誤りなき時は人を畏(おそ)れず
 ・心に邪見なき時は人を育つる
 ・心に貧りなき時は人に諂(へつら)うことなし
 ・心に怒りなき時は言葉和かなり
 ・心に堪忍ある時は事を調(ととの)う
 ・心に曇りなき時は心静かなり
 ・心に勇ある時は悔やむことなし
 ・心賎(いや)しからざる時は願好まず
 ・心に孝行ある時は忠節厚し
 ・心に自慢なき時は人の善を知り
 ・心に迷いなき時は人を咎(とが)めず

春日四柱大神を祭神とする春日神社は、上杉謙信公が奈良の春日大社から分霊し創建した社です。

越後春日山城から会津、米沢と上杉家とともに移され現在に至っています。
米沢では春日山林泉寺の境内や城下を何度も移動し、更には大正8年(1919年)の米沢大火で焼失するなど数奇な運命を辿って来ています。

昭和56年(1981年)に現在の社が建立されましたが、それまでは松岬(まつがさき)神社に合祀されていました。

本丸菱門橋、本丸の南側入口である。

上杉謙信公座像。

本丸御三階櫓跡
本丸北東隅には御三階櫓と呼ばれた三層櫓が設けられ、天守の代わりになっていた。
現在は顕彰碑が建っている。

二ノ丸跡 松岬神社
かつての二ノ丸世子御殿跡に建てられ、上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山公)・鷹山公の師、細井平洲の6人が祀られている。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
米沢城二の丸跡に、1896(明治29)年に上杉茂憲伯爵の邸宅として、米沢出身の建築家、中條精一郎(作家の宮本百合子の父)の設計で建てられたのが始まりで、現在の建物は1919(大正8)年の米沢大火で焼失したために、再び中條精一郎の設計により1925(大正14)年築に建てられたものです。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
戦前は皇族の御宿所としても使われた立派な建築。

戦後は進駐軍の将校クラブとして接収されましたが、返還後は1949(昭和24)年に上杉家から米沢氏へ寄贈。

中央公民館として使われた後、1979(昭和54)年から上杉記念館として使用され、米沢の郷土料理などを味わうことができます。

当日の昼は上杉伯爵邸で献膳料理をいただきました。

献膳料理とは、お殿様に食べていただくにふさわしい料理という意味を込めて命名いたした、伝統の郷土料理のことです。

うるいの冷汁        米沢鯉のことこと煮
筍と米沢牛の煮物    丘ひじきの辛子醤油
くきたち干しの煮物    くるみ寒天
塩引寿司          六浄豆腐の味噌汁
うこぎのご飯        おみ漬け

庭には雪が残りまだ春が遠いことをうかがわせる。
今朝、郡山で見た、あの満開の桜はなんだったのだ。

表門前から見た庭園への門。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
庭園は東京の浜離宮に依って造られたもの。
建物との組み合わせも、また格別です。

正門は大型の一間薬医門で,左右に袖塀が付くのが特徴。
大正時代に建てられたものとは言え、武家屋敷らしい雰囲気です。

米沢市上杉博物館(米沢市)

平成13年、米沢城二の丸跡地にできた「伝国の社」内に開館した博物館です。
国宝「上杉本洛中洛外図屏風」と国宝「上杉家文書」を中心に、数千に及ぶ上杉家ゆかりの品々が収蔵されています。

米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス

明治初期に、米沢藩校「興譲館」に赴任した英国人チャールズ・ヘンリー・ダラス(おかかえのコックは万吉)が、任期中に食べた米沢牛の美味しさに感動し、任期を終えて横浜に戻る際に一頭持ち帰り、知人に振舞ったことをきっかけとして、その美味しさはたちまち人々に伝わり「米沢牛」が世に知られるようになりました。

山形県南部の置賜地方の3市5町で、30ヶ月以上飼育され、肉質が5等級または4等級の牛が「米沢牛」として認められます。

米沢市内に現在も残るウコギ垣

兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。
青苧、紅花、漆などの換金作物の栽培、鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励しました。

これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の名産品になっています。

ウコギは、現在も米沢の郷土食として活躍しています。

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米沢城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:山形県米沢市丸の内1-4-13
電話:0238-22-3189

JR奥羽本線 米沢駅から、上杉神社まで徒歩約30分(約2km)