三成時代はここに5層の天守があったという。
「三成に過ぎたるもの」と称されるほどの威容を誇る堅城へと改修した。
佐和山城は、鎌倉時代近江守護職佐々木氏により築城され、その後戦国時代には「難攻不落」の城と呼ばれていた。
最後の城主となった石田三成が関ヶ原戦に敗れた事で、佐和山は戦国時代の悲劇の場所として歴史に残る山となった。
現在、城址を散策する道は、西側の龍潭寺(りょうたんじ)からと、国道8号線の佐和山トンネルの西側からの2ルートだ。
今回は龍潭寺からのルートを取る。
片道約30分の登りだ。
龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は弘徳山。
本尊は釈迦如来。
元々は、733年(天平5年)遠江国引佐郡(現在の静岡県浜松市北区引佐町)に行基によって開かれ、平安時代から井伊氏の菩提寺となったと伝えられている。
それが、1600年(慶長5年)に井伊氏が近江国佐和山に転封となり、龍潭寺を遠江国から分寺し、この地に建立したのがこの寺である。
山門を入ったところにある三成像。
石田三成は永禄3年(1560)長浜市石田町に生まれ、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされる。
秀吉に見込まれ長浜城で練成され、次々出世し26才で五奉行の筆頭に登りましたが、関ヶ原の戦いで散った。
鬱蒼と茂った林が中門までまっすぐ伸びる。
佐和山城の城門を移築したといわれる中門。
中門の内側も多くの樹木に覆われる。
薄暗い樹木の中に佇む庫裏。
方丈南庭は、「ふだらくの庭」と呼ばれ、白砂に48個の石を配した石庭。
龍潭寺に禅宗の大学寮があり、その中に園頭科(えんずか)がありました。
これが造園専門学校の始まりとされています。
学僧が実習として作った庭などが現在も残り、庭の寺ともいわれています。
廊下にあった大きなだるま
毎年4月に「だるま祭」が行われているそうで、たくさんだるまがあった。
方丈の襖絵は江戸時代の俳人で蕉門十哲のひとり森川許六(もりかわきょりょく)(1656年~1715年)によるもの。
書院東庭は「蓬莱(ほうらい)池泉庭」と呼ばれ、山を背景に大きな池が横たわる池泉鑑賞式庭園。
画面奥が国内有数のものといわれる直下型の枯れ滝「龍門瀑」だ。
佐和山の景色と庭園の緑が一体化して見えるように作られている。
井伊直弼(なおすけ)や小堀遠州が茶の湯を楽しんだ飄々庵(ひょうひょうあん)などの茶室は、佐和山城の城門を利用したといわれ、庭園とともに静寂に包まれ落着いた雰囲気になっている。
藍渓和尚伝来の七福神も拝観できます。
正面は大洞観音堂、佐和山城址にはこの堂の脇を登る。
寺院裏山の墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母の墓や、直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っている。
現在では佐和山城を偲ぶものは、山腹の石田群霊碑のみ。
古絵図に「かもう坂往還」と記されている切り通し。
佐和山城址碑が建つ本丸跡。
標高232.9mの位置に本丸が設けられていた。
現在も山頂は平坦だが、かつて本丸に存在したであろう天守台や枡形などの遺構は、ほとんど確認することができない。
大規模な破城(はじょう)(城の破壊)があったと考えられる。
武士(もののふ)の夢の看板がかかる、佐和山からの景観は、彦根八景にもなっている。
関が原の合戦に勝利した東軍の次の標的は、三成の佐和山城であった。
東軍は井伊直政、田中吉政、小早川秀秋らを先鋒に家康自ら出馬し、その数は一万五千に達した。
対する佐和山城に篭る石田軍は三成の父、正継、兄の正澄ら2800人、しかもその多くが老兵、若兵であった。
兵力の差はいかんともしがたく落城。
家臣の土田東雲斎が、宝蔵から宝物を敵兵の中に投下して自害の刻を稼いだといわれる。
落城の炎に逃げ惑っていた多くの子女たちも、敵の辱めをうけてはと谷に次々と身を投じた。(この谷は「女郎谷」とよばれている)
西には彦根城が見える。
遺構の多くは彦根城築城時に使われたであろうと考えられるが、確証はない。
合戦の4年後、佐和山から約2キロ西で彦根城の築城が始まる。
徳川家康が大坂城に残る豊臣秀頼ににらみを利かせようと諸大名に突貫工事で造らせた「天下普請の城」で、天守は大津城、櫓は長浜城、石垣は佐和山城から運ばれたと彦根藩主・井伊家の歴史書「井伊年譜」は記す。
三成時代はここに5層の天守があったという。
彦根城の前身ともいうべき佐和山城は、彦根城が築城されるまで、近江の要衝を守る城と位置づけられていた。
本丸跡を大手方面に下ると、岩盤上にわずかに残る石垣が確認できる。
この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられる。
関ヶ原戦の3日後、佐和山城は徳川方によって焼かれてしまったが、後に井伊直政が彦根城を築く際、石垣など全てを移転したと伝えられる。
現在の佐和山には石垣だったと思われる石が2つ、残るばかりである。
井伊直憲公顕彰碑
「井伊直憲は、大老直弼の嫡子である。蔓延元年(一八六〇)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠一三才で彦根藩最後の藩主となった。
就任当初は従前どおり幕府譜代大名の筆頭の家格をもって、三十五万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁の際は、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。
その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是であった『勤王の大義』に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決定した。
これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。
その政治力、決断力は、まさに大老直弼の『開国の決断』にも比すべきものがある。
井伊神社は1842年井伊直亮により創立され、井伊家の始祖共保を祀ってある。
サクラやカエデなどの茂る参道は、夏は鬱蒼としているが冬は落葉して鳥居からでも神社の全貌を見る事が出来る。
寺の右側には梅、橘、左手奥には大きなしだれ桜が生えている。
木村長門守ゆかりの血染めのすすき
慶長廿年(1615)大阪夏の陣に、徳川軍先鋒を命じられた井伊直孝は、二代藩主直勝に代って五月六日払暁大阪城を遥かにのぞむ玉串川(現大和川)の若江塘に陣をすすめた。
早朝からの合戦に多くの兵を失った豊臣方の名将・木村長門守重成(槍の名手)は、弱冠廿四の若武者であったが、大阪城もこれまでと、直孝の本陣に最後の追撃を敢行した。
この時、彦根藩士安藤長三郎は、重成の首級を挙げたが、香を焚きしめた兜をつけた姿に、敵将ながらその死を悼み、若江提に繁るすすきに包んで持ち帰り、安藤家の菩提寺宗安寺に手厚く葬り、すすきは佐和山神社(井伊家祖霊社)の社前に「重成血染めのすすき」として植えられた。
その後同神社は井伊神社に合祀されたので、縁りの宗安寺に移植されたが、この度株分けを受けて再び井伊神社境内に昔日の面影を偲ぶこととなった。
井伊家が関ヶ原戦での戦死者の供養のために島左近(石田三成の臣)邸跡に建立されたと言われ、彦根城初代藩主直政が関ヶ原戦の傷が元で亡くなったため、この地を墓所とした。
以来清涼寺として井伊家の菩提寺となり、また大老直弼が参禅修行した寺としても知られる。
本堂左方のタブの樹は、島左近邸の頃のものと伝えられている。
生垣はきれいに刈り込まれ見事。
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佐和山城址へのアクセス、行き方歩き方
滋賀県彦根市古沢町
お問い合せ 彦根市役所 TEL:0749-22-1411 FAX:0749-22-1398
JR東海道本線線彦根駅~徒歩約10分(登城口)