現在は、静かな佇まいの中にあって、長い歴史と豊かな文化財を今に伝える名刹である。
最澄が東北に向かうときに小さなお堂を建てたのがはじまりで、天台宗の古刹である。
天台宗の談義所として寺観を整える。
嘉暦元年(1326)平泉寺の衆徒が乱入して堂宇を焼かれるが、応永2年(1395)貞舜が足利義満の心願をうけて寺坊を再興。
柏原が交通の要地であったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、また関が原の合戦前に小早川秀秋も宿泊したとされる。
左手には鐘楼 室町時代に建立。
佐和山城主、三成がどのように民政を進めていこうとしたのかをよく伝えるのが、所領である犬上・坂田・浅井・伊香四郡に出した「十三ヶ条掟書」「九ヶ条掟書」で、「治部少枡」と呼ばれた三成が提供した枡を使用すべきことなどが記されている。
年貢高の決定に関する細かい規定がされているのが特徴だ。
三成への直訴を許すという内容もある。
年貢という税金システムの確立や、年貢を差し出す者の権利の保護をめざそうとしていることがわかる。
しかし三成が佐和山城主であった期間は10年に満たなかった。
この「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」の2種の掟書は現在も各地域に残っているそうだ。
旧山東町柏原にある天台宗の古刹、成菩提院(じょうぼだいいん)には「十三ヶ条掟書」が保管されている。
ご住職の山口智順さんによると、このあたりは当時成菩提院村と呼ばれ、寺の領地であったことからここに掟書が残っているのだという。
ご住職が興味深いエピソードを教えてくださった。
関ヶ原の合戦で三成率いる西軍から家康側の東軍に寝返った小早川秀秋が、合戦直前に成菩提院に滞在していたというのだ。
これは禁制札と呼ばれる、武将が部下に出す滞在時の約束事を記した木札の日付からわかるそうだ。
このときの住職、祐円は徳川家康のブレーンといわれた天海の兄弟子であった。
「天海から祐円に、そして祐円が秀秋に…という形で秀秋の寝返りの決断を固める何かがあったとも考えられるわけです」とご住職は推測される。
それを裏付けるかのように、合戦後祐円は家康に戦勝祝いとして牡丹餅を献上し、家康から合戦時の櫓に使った木材などをもらい受けたという。
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