大海人皇子出家時の世尊寺

奈良県
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大海人皇子は吉野の宮に入る前に天智天皇に申し出た言葉通り寺に入って修行したという説がある。

当時、聖徳太子が建立したとされる比曽寺(ひそじ,現 世尊寺)が飛鳥からの道を吉野に入ったところにある。

乱勃発後大海人皇子が吉野から東国へ逃れる際には、役小角らがこれを導いたという伝説が残る。

ここで役行者と接して情報を得ていたとも考えられています。

大海人皇子が即位を辞退し、出家して吉野に入るという話には先例がありました。

大化元年(645)、皇極天皇が退位して孝徳天皇が即位します。

この時に古人大兄皇子も即位を打診されますが、古人大兄皇子は固辞し、「私は出家して吉野に入ります」と言って、吉野の現光寺(比曽寺)に入ります。

しかしその九月、古人は謀反の疑いをかけられ、中大兄皇子に討たれてしまいます。
このようなリスクがあるにもかかわらず、大海人皇子は大津から飛鳥を経由して吉野に入ります。

奈良県大淀町の世尊寺は、587年用明天皇の勅願によって聖徳太子が開創した比蘇寺(比曽寺)が始まりと伝えられている。

奈良時代には、吉野寺比曽山寺と呼ばれ、現光寺の由来となった仏像が安置された。

平安時代には宇多上皇や藤原道長などが吉野への参詣の途中に訪れ、大いに栄えたが、その後は衰退した。

さらに1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺」と命名され、勅願寺となっている。

その後、再び衰退し荒廃するが、江戸時代に入って、伽藍を整備縮小し禅宗寺院として、霊鷲山・世尊寺と改め復興し、現在に至る。
山門脇には「史跡比曽寺跡」の碑が建つ。

東塔跡。
比蘇寺には東塔と西塔があったが、そのうち東塔の三重の塔は、1594年(文禄3年)豊臣秀吉によって伏見城に移され、さらに1601年(慶長6年)に徳川家康によって近江の園城寺(三井寺)に移建され、現在も残っている。

現、三井寺の三重の塔は三井寺 桜逍遥でご覧になれます。

西塔跡。
東塔は用明天皇のために聖徳太子が、西塔は敏達天皇のために推古天皇が建てたと言われています
なお、西塔は戦乱により焼失している。

太子堂
奈良県指定有形文化財(建造物)border=”0″ width=”380″ height=”570″ align=”center” />
聖徳太子をご本尊として建立された堂で、右手に柄香炉を持った「太子十六歳の孝養像」が安置されている。

近くには、立派な十三重石塔もあります。

本堂の裏手にある、聖徳太子お手植えと伝わる「壇上桜」。

寺伝によると、150年ほど前に台風で倒れたものの、やがて根元付近から幹が伸びて見事に蘇生。

このため「不老長寿の桜」と呼ばれている。

『世にさかる 花にも念佛 まうしけり』  芭蕉 

松尾芭蕉は貞享5年(1688)、春の4月、弟子の杜国を伴ってここ世尊寺に参詣し、咲き匂う太子お手植えの壇上桜を眺めて詠んだ句。

独り言・・・・・
どうも蝦夷と入鹿親子が悪人というのは国の長ならんとする天皇家(中大兄)から見ただけのもので、民からみたら悪人と考えるのは非常に怪しいのです。
いやむしろ中大兄の方を悪人と考えていたふしがあります。
これは森鴎外が天皇の漢風謚号を考証した『帝謚考』という著書の中で、天智が殷の紂王のような悪逆の天皇であると論じています。

漢風諡号は、奈良時代に、淡海の三船(養老6(722)年~延暦4(785)年)が、神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文と文武を除く)を一括撰進したとされている。

天皇諡号について、漢文に対する深い学識を基に論究したのが、明治の文豪・森鴎外であった。

その論考『帝謚考』は大正8(1919)年に脱稿、大正10(1921)年に図書寮から限定100部が関係官庁等に配布された。
現在は、岩波書店『森鴎外全集』に収録されている。

なお、淡海の三船は大友皇子の曽孫。

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世尊寺へのアクセス、行き方歩き方

住所;吉野郡大淀町上比曾762
℡:0746-32-5976
近鉄吉野線六田駅より奈良交通バス「比曽口」下車、徒歩15分。
大淀町ふれあいバス、中増・上市コース「世尊寺前」下車すぐ。
増口・上市コース「北野台5丁目」下車、徒歩5分。