キショウブ咲く 勧修寺

京都府

キショウブ・カキツバタ、勧修寺の池は花ざかりでした。

開基は承俊律師。1470年(文明2)兵火で焼失したが、徳川氏と皇室の援助で復興。
代々法親王が入寺、門跡寺院として格式を誇った。宸殿、書院(重文)は明正天皇の旧御殿を移築。

山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。

寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。

寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。

一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

宸殿、元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。

入母屋造、桟瓦葺き。内部は書院造である。
明治5年9月勧修小学校が開校時、ここが校舎となった。

応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。
豊臣秀吉が伏見街道を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。

寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。

八千代の感触をどうぞ

さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。

学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。
石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。

日本国歌「君が代」の歌詞に歌われることで、その名が知られている。

ただし、歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となる過程が、非常に長い年月を表す比喩として用いられている。

氷室池はキショウブ・カキツバタ、睡蓮と花盛り。

庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。
中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

数の上ではキショウブに負けているがカキツバタもきれいな姿を見せる。

勧修寺は京都で一番、水鳥が多いと言われています。
今年生まれたばかりのコガモが母親と餌をとっています。

仲よく並んでスイスイ。

今日は一日雨のようだ。

この先に何が!?「この先行かれるのはご自由ですが大いに危険」との張り紙。
興味をそそられ池の周りを一周。

庭には飛び石が並べられ、今日のような日には助かる。

雨に濡れるさくらんぼ。

亀甲垣は、勧修寺の山号・亀甲山にちなみ、若竹を使用し京都の伝統技術で亀甲模様に組まれた他に類をみない垣根。

藤原高藤と宮道列子に関する説話

『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。

藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。

ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。

勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。

翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。

その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。
それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。

列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

藤原高藤の諡号(しごう)から、勧修寺と号す。

『源氏物語』の作者・紫式部は、藤原高藤と宮道列子の子孫です。
紫式部の夫・藤原宣孝もまた子孫にあたります。

紫式部は『源氏物語』の作中において、実在した人物をモデルとして登場させたり、実際に起こった事件を下敷きにしたりしていますので、先祖のロマンスから何らかの影響を受けていたとしても不思議はないと思います。

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勧修寺へのアクセス、行き方歩き方

山科区勧修寺仁王堂町27-6
電話番号 075-571-0048

地下鉄東西線 小野下車 徒歩西へ6分