わずか60日あまりで捨てられた新府城

新府城は勝頼が築城し、甲斐武田氏の城郭技術の集大成と評価される崖端城。

一般には、武田氏は次々に領土を減らしていく一方になり、信玄の「人は城」という伝説(『甲陽軍鑑』『名将名言録』)を理念にできるほどの余力はなかったとされる。

しかし、新府城はとても大規模で、未だ勝頼が復興を期していたことは明白である。

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本丸跡への長~い階段。
猛暑の中、ここを登るのは辛い。

乙女坂、急峻な階段ではなく緩やかな坂が併設されている。
稲荷坂というのが本当の名らしい。

本丸跡に建立された藤武稲荷神社。

藤武稲荷神社の能舞台。

本丸跡。

天正九年(1581)に築城された新府城、しかし、天正十年(1582)、織田・徳川軍の攻勢は変わらず、加えて家臣の裏切りの為、勝頼は移城後60日わずかほどで新府の地を捨てることとなった。

三月三日早朝六時、勝頼は城に火をつけた(『信長公記』)。
この時、各所から参集させたあまたの人質を火殺して退去した。

人質たちの泣き悲しむ声は天に響くほどで、言葉に尽くせない哀れさだったという(『信長公記』)。

新府城送呈復元図。

八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。
西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。

白樺の林をさらに奥へ進む。

長篠陣没者の慰霊塔。

境内の片隅にあった武田勝頼の霊廟と、家臣の墓所。

甲斐国主武田氏四百年追悼の碑。

本丸部では松の伐採が行われている。

本丸から二の丸へ。
周囲には土塁跡がちらほらとあります。

二ノ丸とその土塁虎口。
新府城では石垣は一切使われていません。

ここは七里岩の断崖の縁にあたります。
この場所に来て初めてこの城の要害性を実感できます。

馬出の中に道が出来てしまっているため形状はよくわからない。

蔀(シトミ)の構え、本丸と本丸馬出しの間にある。
蔀は城内を見透かさせないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。

ここからでは遮るものがないように見えるのだが・・・
現状は馬出からは本丸全体が高くなっているので見えないだけです。

付近では桃が収穫期を迎え農家の人が忙しそうに働いていました。

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新府城へのアクセス、行き方歩き方

韮崎市中田町

JR「新府」駅徒歩10分