「八棟造り」と呼ばれる 今西家住宅

奈良県

戦国時代の構造様式を残す建造物で慶安3年(1650年)に7代目当主今西正盛によって裁判を行うために改築された陣屋であり、住宅で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八棟造り」と呼ばれている。

今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、現在のように自動車が頻繁に通る都市としては不適当な町並である。

今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。

その機能も意匠も物見櫓とよく似ている。

「町の幻想 あかり」と称するイベントが行われています。

天正3年(1575年)、織田信長本陣となり、土間をお白州に見立ててお裁きが行われる陣屋となった。

その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたことが旧今井町役場の資料に残っている。

今、おかみが建っている場所がお白洲であった。

罪人が自白をしない時には、はしごを上って扉の中に入れられます。
扉が2つあるのは、男女別だから。
煙で燻して、自白を促したという。

1階の土間から座敷側を見る。
画面左手が入口、部屋は左が「みせのま」、中央が「なかのま」、右が「だいどころ」。

梁や柱を現しにして仕上げた真壁がみえる。

帳台構えの出入口及び2段押入にはすべて「くろろ」(猿落とし)が付いていて、いずれも戸締りが完全にできるようになっている。
他の部屋にも「くろろ」が付いており、外から遮断できるようになっている。

今井町でこのように「くろろ」が付いている住宅は他には見当たらないことからして外敵からの防御を常に意識していたことが考えられる。

屋敷は城郭のような造りで、「三本川に井桁」の家紋は今西家が「川井」という苗字の元武士の家柄であったことを示しています。

菱形3段に重ねた武家を象徴する旗印を付けている。

現在、本建物が建っている位置は、旧環濠集落の西端にあって、西の要といったことから外敵を威嚇、あるいは防禦する意味において、城郭を思わせる建築様式を備えさせたものと思われる。

したがって、本建物は故意に北側の道路上(本町筋)に突出していて、2階座敷北と東の両面に塗籠(ぬりごめ)の連子窓(れんじまど)を設け、外敵の見張りあるいは町内の動向をさぐるに格好の場所であったと思われる。

元和7年(1621年)5月、大坂夏の陣の功により郡山城主で徳川家康の外孫の松平下総守忠明から今井の西口を守ったことから今西姓を名乗るようにすすめられ、5代目から今西姓を名乗った。

その時に薙刀 銘来国俊を拝領している。

昭和2年(1927年)の北丹後地震により、本建物西に接続していた牢屋と、南の三階倉が倒壊した。

この頃には本建物も相当破損していたようで、特に西南隅の地盤沈下に伴い、本建物が西に大きく傾いていたようである。

江戸時代であれば、この程度の修理は官費で賄えたであっただろうが、明治維新後は廃藩置県によって、長年勤めてきた惣年寄の役職もなく、男爵位を明治政府から薦められたものの華族の資産基準に満たないほど窮迫していたようで、一市民としては簡単な修理が精一杯のようであった。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

今西家住宅へのアクセス、行き方歩き方

奈良県橿原市今井町3-9-25
0744-25-3388

近鉄八木西口駅から徒歩で10分