鰊漁の盛衰に伴って、天国も地獄も経験した江差

北海道
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町名の由来はアイヌ語で岬を意味する地名エサシ (esasi) であり、宗谷総合振興局の枝幸町と同じ語源である。
放送局の天気予報などでは当町を「道南の江差」、枝幸町を「北見枝幸」と呼んで区別することが多い。
江差追分発祥地。

函館市、松前町と並び、北海道で最も早く開けた地域の一つ。
江戸時代はニシンの漁場および北前船によるヒノキアスナロなどの交易港で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えた。

松前港に三本マストが見えるが、激動の幕末期、徳川幕府が所有した悲運の軍艦「開陽丸」。
戊辰戦争時、暴風のため江差沖で座礁、沈没してから140年の年月を経て、原寸大で再現されている。

江差追分会館
資料展示室、演示室、追分道場からなる江差のメインスポット。

江差追分は江戸時代中期以降に発生したとされている。
信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである。

江差屏風を描いた豪華な緞帳が印象的な舞台では、4月末から10月までの毎日、江差追分をはじめ江差に伝わる郷土芸能を実演している。
[通常実演]江差追分他、唄を披露/毎日11:00、13:00、14:30の3回。

三日後に江差追分の全国大会を控え町は華やいでいた。

「江差追分全国大会」は毎年、9月の第3金、土、日曜日の3日間にわたって江差町で開催される。
全国から選び抜かれた江差追分の唄い手約350人が集い、日本一のノドを競い合う、追分の本場江差ならではの一大イベントが江差追分全国大会。
昭和38年に第1回が開催された、民謡の全国大会としては最も歴史ある大会。

北前船は船型の形式を指すものではなく、廻船の性格、むしろ一種の商取引の形態と称すべきもので、物資の流通が未発達に起因する生産地(供給地)と消費地(需要地)の価額差を利用し、商品を遠隔地に運んで販売し、より利潤を高めようとする商法である。

毎年8月9日、10日、11日に姥神大神宮の神輿3台に供奉する13台の山車(江差では曳き山を「ヤマ」と呼ぶ)が、それぞれ由緒ある人形、装飾品で飾られ町内の威信をかけて個性を競いながら錦の御旗をひるがえし、祭囃子の調べにのって町内を巡行します。

旧中村家住宅は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に、海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたもの。

家屋は、当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、総ヒノキ切妻造りの大きな2階建ての母屋。
さらに母屋から浜側まで文庫倉・下の倉・ハネ出しまで続く「通り庭様式」で当時の江差における問屋建築の代表的な造りとなっている。

大正時代初期に大橋家から中村米吉が譲り受け昭和46年(1971年)に国の重要文化財に指定され、さらに49年(1974年)に中村家より町に寄贈。
57年(1982年)に修復が完了し一般に公開している。

通りに面している入口から入ったところは帳場で、3人の手代が座れる珍しい形になっています。
奥には番頭が座る帳場があり、帳場があるところだけが2階建てになっています。

2階は日本三大銘木にもなっている紫檀、黒檀がたくさん組み込まれた床の間で、壁は当時の贅を尽くし、砂鉄やアワビの貝殻をまぶしたきらびやかな書院造りです。

帳場から奥へ、茶の間、仏間と続き、倉の入口が見えてきます。
倉は当時の貴重品が保管されていた場所で、上の窓は日本製のガラスが使用されており、ゆがみがあるのが特徴となっています。

もともとは、多くの廻船問屋の家屋が、こんなふうに直接海に面して建っていた。
(旧中村家住宅の展示から)

旧中村家住宅は、主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟からなり、各棟をトオリニワと称する通路で結んでいます。
下ノ倉が江戸時代末、主屋と文庫倉が明治20年代の建築と考えられています。

台石は北前船で運んできた笏谷石(しゃくだにいし)。

家の中から見るとこのようにトオリニワと称する通路で海まで結んでいます。

各棟はこのようにうまくつないであります。

最後のニシン

長い間、江差の経済を支えていたニシンも時代が下るにつれ、次第に捕れなくなっていきました。
こうなると禁止された大網を使って漁獲量の増大を狙うものもでます。
大網の使用がニシンを枯渇させる原因と考える漁民は藩に何度も大網禁止を訴えますが、なかなか守られません。

熊石から上ノ国までの漁民が大勢集まって、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや江差地方の漁民が、岩内、古平などの海に出かけ、次々と大網を切る網切り騒ぎも起こりました。
明治になると、ニシンの漁獲はいよいよ減り、漁民の暮らしは苦しくなる一方で、このことが檜山騒動を大きくした背景となりました。

長い間、江差の経済を支えてきた近江商人たちも、ニシン漁がふるわなくなると、本拠地である本州へ引き上げていきました。
一方、日本最初の開港地となった函館は、北海道開発の拠点として発展を続け、江差から函館へ移っていく商家も多数ありました。

一方、まだ資力あった漁民たちはニシン漁のあった北へ北へと移動を始めました。
北に行く資力のない漁民たちは、生活のために漁具を売り払い、出稼ぎに出るまで追いつめられたのです。

こうして江差の浜が無人の浜になろうとした明治41年4月3日。
誰もがもう来ることはないだろうと考えていたニシンが、なんと10年ぶりに押し寄せました。

しかし、この群来を前にして、江差の浜には漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったといいます。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せた後、現在に至るまで、ニシンは完全に幻の魚になってしまいました。

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近江商人と松前藩

近江商人は、近江の国(滋賀県)で生まれ育ちながら、わざわざ他国へ出て店を開き商売をするというパイオニア精神に特色があります。彼らは、江戸時代初期に海峡を越えてエゾ地へと渡り、北海道初期開発につくしました。

北海道交易の開拓者は近江商人といっても過言ではありません。
まだ定住者も少ない未開地の北海道に移り、松前藩と一体の開拓によって藩の財政を一手に握るようになります。

松前藩は1604年に家康よりエゾ交易独占の黒印状が与えられました。
このエゾ地は江戸期に米の収穫はなく、よって石高も無いのですが、特別に一万石格を与えられていました。

家臣への俸禄(給料)はアイヌ部落ごとの交易独占権の分配という形でなされ、ここに近江商人の商才が入り込んでいくわけです。
松前に拠点をもち各地で活躍した商人たちは、次第にその数を増し、商いも大きくなりました。

北海道で買い入れたさけ、にしん、こんぶなどの海産物は、自分たちの持ち船によって京都、大阪へ運びました。
その輸送経路は、最初は日本海から敦賀を経て琵琶湖を利用し、後に日本海から瀬戸内海を経由するル-トを通って輸送しています。

そして北海道へはこの逆コースによって衣料品、小間物、雑貨、荒物などの物資を運び、往復取引によって繁栄したのです。  

松前藩は広大な蝦夷地をまとめるために、『場所請負制度』というシステムでもってあたります。
『場所請負制度』とはアイヌ居住地域を『場所』という区分で分割し、その支配を『場所請負 商人』に委ねるもので18世紀ごろには確立していました。
松前藩から認められた、こうした特権商人に近江商人が関わっていたのです。

ところが明治維新後、1869年(明治2年)場所請負制度が廃止されます。
独占支配していた場所請負人、近江商人たちは次第に店を閉鎖していきました。
こうして次に松前、江差、函館、小樽に残した近江商人の足跡の上を、北陸の北前船主たちがその全盛期を向かえることになります。

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江差へのアクセス、行き方歩き方

本州から飛行機ご利用の場合
・函館空港より函館駅行きバス-約20分-函館駅前下車

・函館駅前発江差ターミナル行きバス-約1時間40分-中歌町バス停下車又は
  函館駅発JR江差線-約2時間30分-終点江差駅下車 徒歩20分

本州からJRご利用の場合

・JR海峡線(特急白鳥)木古内駅下車

・木古内駅発JR江差線-約1時間00分-終点江差駅下車 タクシー5分(徒歩20分)
 江差線は2014年5月廃止が決まっています。
 現在は廃止を惜しむファンで平日でも満席の盛況。

札幌方面からJRご利用の場合

・JR函館本線八雲駅下車

・八雲駅発江差ターミナル行きバス-約1時間30分-中歌町バス停下車