祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路

京都府
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清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策した。

祇園女御は白河法皇の晩年の寵妃。
女御の宣旨は下されなかったが、居住地にちなんで祇園女御、または白河殿と呼ばれた。

祇園は生母を三歳で亡くした清盛を引き取って育てる一方で子沢山の言大納言・藤原公実の生まれたばかりの末娘を所望して猶子としました。

猶子というのは養子のようなものです。
この末娘が後の崇徳天皇、後白河天皇を生んだ待賢門院璋子です。

すぐ隣が芭蕉堂です。
鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、柴の庵と聞くはくやしき名なれどもよにこのもしき住居なりけり(山家集)と詠んでいる。

芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕って旅の生涯を送ったが、この地で、先の西行の作歌を踏まえて、しばの戸の月やそのままあみだ坊(小文庫) の一句を詠んだ。

『奥の細道』とは西行が歩いた奥州への旅、歌枕をなぞる芭蕉の旅でした。
芭蕉にとって西行は憧れの人というよりは、ふたりといない人生の師という存在だった。

時代は違いますが、諸国を旅した2人の文化人と縁のある建物が隣り合っているというのは興味深い。

芭蕉堂のすぐ隣が西行庵です。
雙林寺へは出家の翌年、永治元年(1141)から、塔頭である「蔡華園院」に止住していたようです。

西行庵がある地は、彼が蔡華園院(さいかおういん)を営んだ地。
祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となった。

西行の実家と平泉とは遠い姻戚関係にあったようで、西行は義経の死を悼んで奥州への行脚に向かったとも言われています。

平清盛とは同じ北面の武士だったと言われていますし、出家後西行が鞍馬にもいたことを考えるなら、鞍馬寺に預けられていた義経とも何らかの接点があったのかもしれません。

また「不許葷肉入門内」という石碑が出入り門横に建っていますが、「葷(くん)」は、ニンニク、ネギ、ニラなどを指します。
したがって、「葷、肉の入門を許さず」という意味です。
ところによっては、酒を加えてあるところもあります。
つまり修行に必要のないものは、持ち込みを禁止するということです。

西行も清盛も1118年生まれ、同い年で、どちらも「北面の武士」として任官され、おそらくどちらも十代の若者として交流もあったであろうし、一方は権力の頂点に上り詰めた男であり、一方は歌人として「新古今」の筆頭に推挙された男、「北面の武士」数ある中でもこうして後世まで語り伝えられる二人は異色の存在であったに違いない。

年次に従って言えば、出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。
久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。

このとき善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。
後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。

文治2年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。
建久元年(1190年)にこの地で入寂した。
西行の高野山入山のきっかけに、平清盛の誘いがあったという説がある。

若き日、同じ北面の武士として仕えたことから、あながち根拠のない説でもなかろう。
当時、清盛は、安芸守(あきのかみ)になっており、安芸の一宮(現在の厳島神社)の造営に力を注いでいた

出家の理由は、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。

近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。

この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。

しかしこれは後代の創作であるが、1988年『西行』で白洲正子が、待賢門院への失恋による出家説を唱え、90年、瀬戸内寂聴が連載を開始した『白道』で続き、91年に辻邦生が連載を始めた『西行花伝』で踏襲したもので、2008年三田誠広も書いている。

法金剛院は西行の「永遠の女性」待賢門院が最後に住んだところで、西行もよく訪れていたという。
関連記事:朝に訪ねる蓮の花咲く 法金剛院

芭蕉堂から道を右に取ると目の前に大きな塔が目に飛び込んでくる。
八坂の塔と呼ばれる事もあるが正確には祇園閣である。

この地は、かつて財閥の別荘であったが、変遷を経て今は大雲院の境内になっている。

大雲院を下がったところに歌仙堂がある。
歌人の聖地として親しまれる歌仙堂。
祭られているのは同寺を創建した北政所ねねのおい、木下勝俊。

桃山時代に大名として立身したが、その後に出家して長嘯子(ちょうしょうし)と名乗り、数多くの和歌を残している。

歌仙堂をさらに下ったところに、白壁を丸くくり抜いたところがある。 
お店の入口のように見えるが、中へ入ってみると「ねねの小径」といって、石塀小路へ抜けれます。

外に出ると、そこは石塀小路になっています。
京都らしい風情漂う石塀小路。
路に敷き詰められた石畳の一部は京都市電の敷石を移設したそうです。

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