松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山に築城された。
城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ、現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている。
多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(若草中学校グランド)、その東は京街道になり交通の要衝を占めている。 画像はウィキペディア
この一直線に続く150mの長~い参道は見事!
佐保山南陵(聖武天皇陵)の遙拝所。
光明皇后を埋葬したとされる佐保山東陵。
仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在聖武天皇陵ともに、陵墓への立ち入りは禁止されている。
そのような中『日本城郭大系』では『調整地形図』より仁正皇太后陵の西南隅に土塁か櫓台があったと推定している。
またその西側を切り落とし堀切を作り、本丸と分断してある。
さらに西側には聖武天皇陵があり、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと推察されている。
両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われている。
現在の多聞山城の跡地には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。
本丸部分は若草中学校が建っており本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。
周辺より石材の切取跡がみられ、本丸の斜面を石垣で固めたのではないかと考えられている。
後にこの石垣は筒井城に移築されたと思われている。
また校舎と若草中学校グランドの間には大堀切があり、多聞山と善勝寺山を分断する城郭になっている。
若草中学校正門前に多聞山城址の碑が建つ。
昭和23年(1948年)に若草中学校が建設され、昭和53年(1978年)には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。
『興福寺旧記』や『享禄天文之記』によると永禄5年(1562年)8月12日午前8時ぐらいより、多聞山城の「四階ヤクラ」の棟上げ式があり、奈良の住民を招待していたようである。
『多聞城と松永久秀』では、この時の状況を松永久秀が大和国の支配に対するデモンストレーションではなかったかとしている。
支配の象徴でもある天守を棟上げし、「守る城」から「見せる城」、象徴としての城郭を意識した作事をおこなったことは、近世城郭の先進性が見てとれる、と解説している。
近世城郭の天守閣の始まりは安土城とする説もあるようですが、この多聞山城こそ先駆的存在だったとする説もあり、「多聞櫓」と呼ばれる建築物はこの城が始まりとされています。
また、松永久秀は斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。
善勝寺山(若草中学校グランド)より空堀を見る。
東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点となった。
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多聞山城へのアクセス、行き方歩き方
奈良市法蓮町多聞山
近鉄奈良駅、JR奈良駅下車、バスいずれも「法蓮仲町」降車、北東へ徒歩10分。