同心円状に堀が巡る珍しい城 田中城

東海
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全国でも大変珍しい、同心円の形をした城郭ですが、市街化が著しくてその形状を楽しむことは困難。

史跡田中城下屋敷跡、田中城の南東隅にあり、一色氏やその子孫古沢氏の屋敷跡だとも伝えられています。

しかし、江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山、泉 水、茶屋等を設けて四季の景色を楽しんだといわれています。

天下を統一して大御所になった家康公は、たびたび駿府城から田中城を訪れ、鷹狩りや友との交流を楽しんだといわれています。

家康公の75年に及ぶ生涯の最晩年に、田中城は心安らぐ場所として、大きな存在感を示しました。

なお、元和2年(1616年)1月に徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。
これが家康の死因とする説がある。

死因については、鯛の天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。
しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で、亡くなったのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。

これに替わって主流となっているのは胃癌説。

『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている。

また、さまざまな説があるがいまだにわかっていない。

後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌であるという説明がなされることもあるが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである。

下屋敷庭園、築山や泉水、茶屋や稲荷社が江戸時代後期にはあったそうですが、時代とともに破壊され、いまはそれらしく復元されています。

門を入ってすぐ左側に建っているのは、御亭と呼ばれる、本丸に建っていた2階櫓。

明治になってから田中城には高橋泥舟が入ったが、その配下である村山氏がこの櫓を払い下げて、住宅として移築したとのこと。

この櫓は本丸の南東の隅櫓として、3m程度の石垣の上に建っていたという。

徳川時代に総構えの外堀として改修された六間川。

旧大手平島口に残る堀跡と土塁。

田中城も六つの丸馬出&三日月堀を伴っていたという。

武田時代の丸馬出と三日月堀の遺構は徳川時代に改修され、挙句の果てに市街地化によりそれすらも消滅してしまい、現状では新宿二ノ門に僅かな遺構を残すのみである。

本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。

画像は西益津小学校の校庭にある本丸以降の模型、六つの丸馬出&三日月堀を伴っていたとい分けるが、手前の楕円形の部分が三日月堀。

藤枝市のマンホール、富士山と、藤枝市の花・フジ、木・マツ、鳥・ウグイスのデザインで、「わがまち 藤枝」と書いてあります。

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田中城へのアクセス、行き方歩き方

住所:藤枝市田中3-14-1
電話:054-644-3345

JR東海道本線、西焼津駅下車、バス7分「西益津中学校前」降車、徒歩すぐで田中城本丸跡。また「六間川」降車徒歩4分で「史跡田中城下屋敷」。どちらかで降りればあとは徒歩圏内