利家の大修築 名城金沢城

北陸
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利家は、今に残るような近世城郭へと大修築を行った。 
利家・利長・利常の3代に渡って整備され、同時に城下町金沢も整えられた。

なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。

兼六園に向かい合って建つ石川門はかつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門でした。

旧百間堀の底を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところにある。

白く見える屋根瓦には鉛を使用。

鉛瓦と言っても、全てが鉛で出来ているわけではありません。
瓦の形をした木に、厚さ4~8mmの鉛板を貼りつけたものです。

他の城でも鉛瓦は一部用いられていますが、金沢城のように櫓(やぐら)や門、塀の全てに用いられた例はありません。

鉛瓦が用いられたのには、次の三説が考えられるといわれています。

「城の意匠として気品があるから使われた」といわれる説。
これは、なまこ塀の城壁と、時がたつにつれてくすんだ銀色になる鉛瓦が、城全体に気品をもたらすことからきた説。

金沢城で鉛瓦が使われた理由の一つは、「いざという時に、鉛を弾丸として使うため」といわれるものです

「寒冷地なので、焼き物瓦では長持ちしないから」といわれる説。
これは、豪雪地帯で厳寒の北陸では、当時の技術の焼き物瓦では長持ちせず、城の維持を考えた場合、大変なコストがかかるので、鉛瓦になったのだという説です。

また、鉛瓦の芯の部分に木の板を使ってあるのは、屋根の総重量を少なくするための工夫だといわれています。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

金沢城公園の新しいシンボル、新しく復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。

3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。
これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。

明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模で、大径木の事前調達や土台石垣の解体、修築を含め、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて造られました。

菱櫓という名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角は夫々80度と100度になっています。

建物が菱形の場合、柱も菱形です。

金沢御堂址地は勝家の重臣佐久間盛政により金沢城が築城されます。

1582年(天正10年)6月2日信長は明智光秀によって討たれ、豊臣秀吉の天下となると前田利家が入城、加賀百万石の祖を築き、明治維新まで前田家が城主を務めます。

犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、約4kmの導水トンネルを経て小立野台地に出た後、兼六園の園内の曲水となる。

かつては、導水管を用いて外堀をくぐらせ金沢城内に水を供給し、さらに市内に配水していた。

金沢城は堀に囲まれていたが、板屋兵四郎は水の高低差を利用して金沢城内に水を吹き出させた。

これは取水地が金沢城より高い位置にあることを利用した逆サイフォン(当時は「伏越の理(ふせこしのことわり)」と呼ばれた)であった。

当初は木管が用いられていたが、後に石管に替えられた。石管は、市内の石川県立歴史博物館の中庭等で保存されている。

1950年代頃から地表部に生活排水の流入が目立ち始め兼六園の曲水にも悪影響が出始めたため、地表部分の大半には並行して兼六園専用のバイパスが埋設された。

石管には、富山県砺波市で産出した金屋石が使用され、富山県十二貫野用水の第一分水である龍の口用水で使われた技術が利用されている。

鶴の丸広場、本丸・東ノ丸の真下にある郭のことで、東ノ丸にいた芳春院(利家夫人)が、ここに白い鶴が舞い下りているのを見て、 これは前田家が長く栄えていく瑞祥(めでたい事の兆し、吉兆)であるとして、 この郭を鶴ノ丸と名付けたという。

初め、二代藩主利長がここに便殿(休息用の御殿)を 建てて住み、政治を見ていた。

また、ここに人質を置く建物があり、慶長19年(1614)及び 翌元和元年の大坂の役の時、出兵中に領民による騒乱を防ぐために加能越三国の一向宗の坊主や百姓・ 町人の主だったものを人質としてここに収容したとも伝えられている。

本丸と二ノ丸、鶴の丸をさえぎる場所にある、大きな石垣。
中央部分がナナメに切られ薬研堀のようにも見えるが、よくみると斜面にも石垣が積んである。

二ノ丸から直接本丸(東の丸)へこのルートでは行けないように仕切っていたと思うのだが、左側の本丸石垣だけでなく、なぜ右側の石垣もあるのかは不明。

金沢御堂は百姓の持ちたる国、一向宗徒加賀の拠点として1546年(天文15年)に築かれました。

1575年(天正3年)8月15日信長は越前一向一揆衆を滅ぼしその勢いで加賀に攻め込み南二郡を攻め滅ぼし、簗田広正に与えられます。

しかし、一向一揆の力は強く広正は苦戦します。
加賀平定は一行に進まず、信長は広正に見切りを付け柴田勝家に加賀平定を命じます。

1578年(天正6年)3月信長に契機が訪れます。
加賀、能登、越中などの地を巡って争っていた越後の上杉謙信が急死したのです。

柴田勝家は加賀侵攻を試みますが、一向一揆を攻めあぐねます。
しかし、1580年(天正8年)閏3月5日信長は10年間に渡って争った一向宗総本山石山本願寺の顕如と和睦、閏3月9日勝家は野々市砦を攻略、金沢御堂も攻略されます。

しかし、3月17日和睦の条件として加賀の地は一向宗に返すこととなります。
しかし、あくまでも信長に従順ならばという条件付きであり、加賀一向一揆は信長と激しく争い、結果的に戦いは激化11月17日ついに勝家は加賀一向一揆を攻め滅ぼします。

丑寅櫓跡、東ノ丸の隅櫓があった所で、本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられた。

物見や本丸の防御を狙っていましたが、宝暦の大火(1759)の際に焼失。

目の前は兼六園、遠く戸室山、医王山などが眺望できる展望台となっています

辰巳櫓跡、辰巳は天守閣から見て南東の方角、丑寅は北東の方角、戌亥は北西の方角のことで、 辰巳櫓、中櫓、丑寅櫓は、百間掘を挟んで、金沢城の一番の弱点である小立野台地(兼六園方向)に 睨みを利かせ、戊亥櫓は二ノ丸を始め、城内全部に目を光らせたのでしょう。

辰巳櫓跡の展望エリアからの眺望。
いもり堀と鯉喉櫓台が見える。

いもり堀は、今の復元堀の向こう側に隣接する3車線ぐらいの車道あたりまでが当時の外堀だった。

写真では分かりづらいが、手前の下に見えている四段石垣の上3段分が当時の高石垣だったので、櫓自体はこの数m先の空中に建っていたイメージか。

兼六園から見た辰巳櫓跡、以前の撮影です。

築城当時は天守や御殿を始め多くの建造物が建ち並ぶ城の中心地だったようだが、築城からそれほど経っていない1602年には落雷で本丸全体が炎上(火薬庫に火が移ったからとか)、その後は天守は再建されなかったという。

今はこのとおり森。
古くは金沢御堂(加賀一向一揆の本願寺本拠地)があった場所という。

三十間長屋から本丸石垣沿いに鶴丸倉庫の方へ下ると見えるトンネル。
第九師団駐屯当時の、弾薬庫への通路。

三十間長屋、本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のもの。

宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴。

二ノ丸は城内中央の郭で、周囲が530m。

慶長7年(1602)の天守閣焼失以降、城の中心は二ノ丸へと移され、藩主の居館として二ノ丸御殿が整備されていった。

宝暦9年(1759)と明治14年(1881)に焼失。現在は広場になっている。

二ノ丸から本丸への通路に架かる極楽橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある。

昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。

以前の訪問記です。

加賀百万石の威容 金沢城
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦 … 続きを読む →

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)