亀甲山勧修寺 水連、蓮が花盛り

アジサイ
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白梅や、紅葉の名所の一つ。
3月は、馬酔木(あしび)5月上旬~中旬は、氷室の池(ひむろのいけ)にスイレンや杜若が咲き競う美しい名所。
現在は水連、蓮、アジサイが楽しめます。

画像はクリックすると拡大します。

山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。
真言宗山階派大本山。
山号を亀甲山と称する。
開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。
皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。

寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。

宸殿は、延宝4年(1676)造営の明正院御所対面所を元禄10年(1697)に明正天皇から下賜されたものである。
明治維新直後、一時的に京都府郡部最初の小学校に使われたという。

樹齢750年と伝える偃柏槙(ハイビシャクシン)が地を這うように枝を広げている。

書院前庭には水戸光圀寄進と伝える石灯籠があり、勧修寺型灯籠として知られる。
偃柏槙(ハイビシャクシン)の間から顔を出しています。

本堂-寛文12年(1672年)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったという。
本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。

広い庭園には木がたくさんあり、所々に一輪づつあじさいが植わっていました。

密集して咲くあじさいもいいものですが、一輪挿しのように咲くあじさいの味わいもいいです。
思わずパチリ。

本堂の横に半夏生(はんげしょう)が群生しています。
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つ。
農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。

この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
また三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めともなっている。

中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており現在は水連の盛り。
水面に映る水連の姿は見事です。

ハスが咲き始めています。

池の裏手は一応立ち入り禁止、「この先行かれるのはご自由ですが、大いに危険」
という表示板があります。
失礼して覘いてみましたが素晴らしい景観が広がっていました

氷室の池に観音堂が映りこみ見事な景観です。

向こうに見える人は庭園を散策中の人。
平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

水連が一面に広がっています。
応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。

豊臣秀吉が伏見街道を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。
寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。

氷室の池には鯉、鳥などがたくさん生息していて落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

ぎっしり詰まった水連の向こうに観音堂が見えています。
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。

ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。
勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。

翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。

それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。
6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

いきなりカモが飛び立ち、思わずドキリとさせられる。

カモたちが戯れるのどかな森です。

アオサギも漁をしています。

仏光院 勧修寺の塔頭。
朱印は、ここで頂くことになっている。
1953年(昭和28)大石順教尼の再建。

順教尼はもと大阪堀江の名妓だったが、養父の狂刃による6人斬り事件の巻き添えをうけ、17才で両腕を切断された。
この人生のどん底を生き抜き、やがて出家。

6人斬り犠牲者の追善と身体障害者の救済に生涯を捧げた。
口で文字・絵も描いたと言われる。
1968年(昭和43)当寺で没。
何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来し我れ(順教尼)」

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勧修寺へのアクセス、行き方歩き方

京都市山科区勧修寺(かんしゅうじ)仁王堂町27-6
電話番号:075-571-0048
地下鉄東西線小野駅下車徒歩約5分。
京阪バスで勧修寺下車すぐ。