頼久寺 小堀遠州作庭の枯れ山水の庭

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1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで東軍についた功により小堀正次が備中国1万4千石に封じられ、1604年(慶長9年)に逝去したため子の政一(小堀遠州)が遺領を継いだ。
この頃の備中松山城は備中兵乱後で荒廃していたため、政一は頼久寺を仮の居館とし、1619年(元和5年)の移封までここで過ごした。

境内の庭園はこの頃の政一(遠州)により作庭されたもので、蓬莱式枯山水庭園である。愛宕山を借景に白敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現している。
このような築庭様式は、安土桃山時代から江戸初期にかけて盛んだったもので、現在まで当時に近い状態で保存されているのは貴重であるとされ、1974年(昭和49年)に国の名勝に指定された。

高梁の寺は、高い石垣に囲まれている。
城下町にある寺は、戦の際に軍事的な役目を荷っていたため、このような造りになっているらしい。
1657年に建立された松連寺は、武家諸法度によって城の新築や修復を禁止、制限されていたため、備中松山城の砦の役目を果たすために築かれたという。
庭園は国指定名勝で、岡山後楽園、津山衆楽園とともに、岡山三大庭園とされる。
毎年秋には小堀遠州を顕彰するお茶会が催される。

美しい八重桜に彩られた山門も、目を見張るものがある。
ここで政務を執った遠州は、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠らに仕え、備中松山城を再建したほか、駿府城普請奉行を務め、作事奉行として名古屋城天守,後陽成院御所造営などにあたり、遠州流茶道の祖としてだけでなく建築、造園の巨匠として知られている。

起源については不詳。
1339年(暦応2年)、足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされた。
当時、中国より帰国した寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とする。

永正年間(1504年 – 1521年)、備中松山城城主、上野頼久が大檀越となり寺景を一新した。

1521年(大永元年)、頼久が逝去したので、その2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称する。
境内には寺号となった中興の開基・備中松山城城主上野頼久の墓がある。

正面にそびえる愛宕山を借景し、砂の庭の中央に築かれているのが「鶴島」

その奥に「亀島」が覗いている

左手から広がるサツキの刈り込みは、大海原を表現して「園内で最も優れた美的景観を示している」青海波

座して見る庭園
解説のテープを聴きながら庭園を眺める。
小堀遠州(1579~1647)は、慶長9年に父が亡くなった後、備中松山城を預かったが、城は天正2年(1574)の「備中兵乱」で荒れ果てていたため、遠州はこの寺に藩庁を設けて政務を執ったという。

書院脇の池には、ミニチュアの石橋が渡され、可愛らしい石仏がぽつんと座っていた。

暦応2年12月沙彌西念勧進と刻された石灯篭

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頼久寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:716‐0016 岡山県高梁市頼久寺町18
JR備中高梁駅→徒歩15分
岡山道賀陽IC15km20分

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