築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、天正10年(1582年)、長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を長宗我部元親の配下である真下飛騨守が守備する。
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番としてこれを守らせた。
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。
模擬天守は現在修理中。
元和元(1615)年に徳川幕府の一国一城令が出ると、この城も廃城となり古城山と長く呼ばれた。
随分後世になりますが天保元(1830)年に豪商・近藤利兵衛が買取り、妙見神社を建立。
以後現在に至っても妙見山と呼ばれている。
妙見神社裏には本丸跡といわれる石垣が残る。
石垣は古風な野良積みではなく布積みが見られるので、近世の改修と思われる。
神社は本丸跡に沿うような形で建っており、
後部は通り抜けできるようになっている。
工事中だか特別中に入れももらい間近で見学。
神社の狛犬、普通の狛犬は頭を上にしてお座りをしている形ですが、ここの狛犬は頭を下げ、尻を持ち上げて、尻尾を高く立てています。
この形の狛犬を構え型の出雲型唐獅子(狛犬)といい、出雲地方で発達したもの。
地元出身の俳人・尾形南風の歌碑。
本丸跡からは鳴門市内が望まれる。
神社裏には千畳敷の碑が建つ、古くは古城山と呼ばれていた。。
茂みを分けて裏から降りる、途中に石垣の残骸が残る。
鳴門の海に陽が沈む。
この後室津PAから播磨灘へ沈む夕日を見ることを期待したバスに乗り込む。
しかし、無情にも厚い雲に覆われ夕日は望めず、トワイライトブルーの鳴門海峡大橋を家路へ急ぐ。
撫養城へのアクセス、行き方歩き方
徳島県鳴門市撫養町林崎
JR四国・鳴門線「鳴門駅」下車、徒歩約30分。