小谷山上に築かれた近江の名城 小谷城

今回は小雨をついての登頂敢行だ。

右側の尾根筋を六防迄登り、清水谷を小谷城戦国歴史資料館まで辿るコースをとる。

小谷城は日本五大山城の一つに数えられる。
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。

戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。

その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

日本五大山城とは七尾城・小谷城・観音寺城・月山富田城・春日山城をいう。

大永5年(1525)7月、江南の六角定頼が、小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。

越前軍が布陣した地を、それぞれ金吾丸・真柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる

後方の高所に金吾丸がある。
大永5年(1525)、六角定頼(ろっかくさだより)の来攻に際し、越前より朝倉金吾教景が来援し造作した陣所。

番所跡
金吾丸から歩いてすぐ、平坦な場所にある。

大手道の最終地点に位置し、遠方からは見えず、間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所。

危険につき閉じられた登城路。

城内の曲輪は縦一列につながっており、その最先端にあるのが御茶屋。
「お茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事的施設であったと考えられている。

御馬屋は、その名の通りそこに馬屋があったものか、城の遺構として有名な馬出しに由来しているものか意見が分かれている。
 
馬洗池も、字の通り、そこで馬を洗ったものとみるよりは、城内の生活用水の溜池と考えられる。

年中水が涸れることが無く菖蒲が茂っていた。
一説に浅井町の天吉寺山の元池からサイホン方式で取り入れたとも言われている。

首据石(くびすえいし)
馬洗池から少し登ったところにある。

天文2年(1533)初代亮政は六角氏との合戦の際家臣今井左衛門尉秀信が敵方に内通していたことを知り、見せしめのため秀信の首をここにさらしたことで有名な石。

浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡。

天正元年9月1日、浅井長政が黒金御門から打って出たが、信長の兵に攻められ、、鐘ヶ丸に帰ることができず、ここ赤尾屋敷に入り、自刀した。

享年29歳。

桜馬場
曲輪の一つで、黒金門前の平坦地。
ここには浅井氏供養塔が立つ

見晴のいい場所だが、あいにくの小雨で眺望ゼロ。

黒金門(くろがねもん)跡を目指す。
左右に石垣を築き中央に数段の石階を設けている。
城の主要部の表門、ここを通って大広間・本丸に入る。

大広間
一名千畳敷と呼ばれ、城内で一番広い平坦部。
当時の柱間(6尺3寸)の間隔で礎石が並び、重要な建物があった所と推測される。

後方の一段高くなっている所が鐘ヶ丸と呼ばれる本丸跡。
何層かの櫓があったとされる。

「鐘ヶ丸(かねがまる)」ともよばれた本丸跡を見上げる。

本丸跡、古図には、「天守共、鐘丸共」と書かれているという。
南面には半ば崩れかかった石垣が残っている。

本丸跡から大堀切跡を望む。

本丸跡の北にある大規模な掘跡で尾根を大きく削ってある。
番所跡から本丸までと、その上を区切るためのもの。

かなり埋まっているが、なお、かなりの深さだ。

中丸
大掘切跡の北にある曲輪で三段からなる。
それぞれの曲輪に横矢を設けてある。

刀洗池(かたなあらいいけ)
鏡池ともいわれ、本丸から北へ100mほどの所にある城中の井戸(飲料水)の一つ。

この付近一帯の平坦部が中丸跡。
中丸をさらに一段あがったところに、京極丸があり、大広間につぐ広さをもつ。

その北にあるのが小丸跡。
そして、さらに登ると山王丸がある。

京極丸
京極氏の屋敷があったと云われている。

大広間跡に次ぐ広大な曲輪で、南北4段の構造を持っている。
1573年8月27日、羽柴秀吉により攻め落とされ、久政のこもる小丸と長政の守る本丸との間が分断された。

小丸
2代藩主・浅井久政が隠居した所で、左右2段の曲輪からなる。
1573年8月27日に久政が鶴松太夫の介錯で自刀したところ。

本丸から奥はこのような道なき道を進むことが多い。

大石垣
日本100名城のスタンプのデザインは小谷城の中枢、大広間跡から本丸を見たときに見える石垣。

割といい状態で残っている数少ない小谷城の遺構のひとつです。

山王丸への急登を喘ぎながら登る。

山王丸(さんのうまる)跡
小谷城主要部の最高所(標高395m)に位置する詰ノ丸。

山王丸は、日吉(ひえ)山王を祭ったところからこの名がある。
東南及び北の三面には、城中最大の往時の石垣が遺存している。

六坊の入り口付近の石垣。
六坊は領国内の有力寺院をまとめた場所だったという。

山王丸から少し下ると、鞍部に六坊跡(お寺が六つあった)と清水谷分岐がある。

急峻な崖に囲まれたかなり細い山道を抜けていく。
資料によるとこの道は越前まで続くけもの道であったという。

ここからは清水谷へ向けて急坂を転げるように下る。

布袋岩

清水谷には浅井家重臣の屋敷があったようだ。
最初に出てくるのは土佐屋敷跡。

重臣 大野木 土佐守の屋敷とのこと。
石垣を二段に設けているという。

土佐屋敷跡から更に谷を降りると、次に現れるのは三田村屋敷跡。
重臣 三田村佐渡守の屋敷跡とのこと。

ここも谷側に石垣を設けているとあるが、上の方にちらっと見えている。

八畳岩。
谷川の中にある広さ8畳ほどの巨大な岩。
上面が平らで広い。

蛙岩。
これも高さ5mほどの大きな岩。
蛙の形をしているらしいが、ま、蛙に見えるかな。

丸岩。
確かに丸い。

苔むした岩がいい感じです。
これら八畳岩、蛙岩、丸岩は下山中に見られます。

堅掘(たてぼり)。
空掘で敵が攻めるのを防ぐためのもの。

御屋敷跡。
浅井長政やお市の方とその子供たちの茶々、初、江が暮らしたと考えられる所。

やはり他の屋敷跡とは違い、感慨深いものがあります。

徳昌寺跡。
浅井氏の菩提寺です。

小谷城落城後に長浜市に移され、浅井氏三代の墓があります。

清水谷道を下りもうすぐ小谷城戦国歴史資料館。

清水谷中央の道で北国脇往還と清水谷の堀外で交わる。
明治時代の地籍図に道の両側に土塁の痕跡が見られる。

屋敷跡の南には幾つかの屋敷跡などがあり、小谷城の番所へ続く「虎ヶ谷道」が現れる。

説明板によると、虎ヶ谷道の両側には高い土塁を持った屋敷跡が並んでいることから、往時は重要な道の1つ(大手道かも)だったと考えられるとのこと。

残念ながら今は行き止まりで通行止め。

父久政、越前の朝倉義景とも京の公卿風をまねた享楽家、信長が朝倉征伐に踏み切った時、代々の朝倉家との信義を主張する父久政に抗することができず、信長の背後を突いた行為は冷静に考えれば間違いだった。

惜しい武将を失ったものだ。

戦後処理では金ヶ崎での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を窮めた。
浅井長政・久政親子の首は京で獄門にされ、男系の万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親、浅井井規も処刑された。

また、長政・久政の頭蓋骨は義景のそれと共に薄濃にして、翌年の正月に酒の肴として楽しんだと伝えられている。

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小谷城へのアクセス、行き方歩き方

住所:滋賀県長浜市湖北町郡上
電話:0749-78-8309(湖北町教育委員会事務局)

JR北陸本線 河毛駅 徒歩約30分

河毛駅より湖北町コミュニティバス小谷山線で約20分「小谷城祉」下車、本丸まで徒歩約40分

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