姉川の戦い

歴史を訪ねる旅
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「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。

朝倉氏の家臣・真柄十郎左衛門が大刀をふるって奮戦した血原の決戦場です。
現在は『ちはら公園』となり駐車場付きの公園となり古戦場めぐりの起点として最適でしょう

小谷城址が見えるはずだがあいにくの雨で眺望が利きません。

姉川の戦い絵図。

なお、姉川の戦いを描いた日本で唯一の「姉川合戦図屏風」が福井県立歴史博物館に所蔵されており、毎年6月下旬~7月上旬に一般公開されている。

前方の堤防の向こうが姉川、織田・徳川軍の陣地がありました。

血原公園に立っていた案内板。
案内板の上には朝倉軍の猛将 真柄十郎左衛門直隆の大太刀(刃のみ)通称「太郎太刀」の原寸大模型が飾られている。

下にはその長大な大太刀を振りかざす真柄直隆の絵がある。
また案内板によると、浅井朝倉軍は当初ここから3キロほど北の場所に陣を敷いていたが、合戦が発生した朝に決戦を覚悟しこの姉川の北岸付近に移動してきたという。

朝倉軍はこの近くの三田村氏館に布陣した。

前述の大太刀を振るう猛将 真柄直隆はここで徳川軍と戦い、討死した。
ちなみにこの太郎太刀は現存し、名古屋の熱田神宮に奉納されているという。

織田連合軍と朝倉・浅井軍の軍勢力の配置(現地案内板より)

血原公園の姉川沿いあたりに木々に隠れるように立っていた古い石碑を発見。
姉川古戦場趾と書かれている。

石碑の前には姉川古戦場の看板、簡潔に記してある。

堤防上を歩いてみる。

本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

かすみ堤 看板。
武田信玄により発明されたと伝わり、別名 信玄堤とも呼ばれる。

提に切れ込みが入っていて、水害(洪水など)が発生した際にその切れ込みがクッションの役割を果たし、提が決壊するのを防ぐとのこと。

そのそばには、血原養水底樋跡という石碑もあった。
これは江戸時代の遺構で、当時の彦根藩がここから灌漑(かんがい)のために水を引いた用水路の跡。

姉川の戦い顛末

尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。

侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。

信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。

その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月には信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。

優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。
信長の家臣たちは「金ヶ崎退き口」を経て退却した。

信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。
まずは報復に出撃してきた六角義賢父子を一蹴(野洲河原の戦い)し、織田軍を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。

6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成・坂井政尚・斎藤利治・柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下秀吉・丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。

翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正・中条家忠・佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いらせ、いったん後退した。

6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。

ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。
一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。

朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。
これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。

6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。

これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通・氏家卜全・安藤守就)が向かった。

午前6時頃に戦闘が始まる。
浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。

織田・徳川方の戦死者は800人、負傷者は各方その3倍と推定されている。
合戦場付近の「血原」「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。

信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。

まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城蕃として横山城に入れた。
ウィキより転載

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姉川古戦場趾へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県長浜市野村町

JR琵琶湖線長浜駅から湖国バス野村橋下車すぐ