熊野灘にそびえる海の城 新宮城

和歌山県

新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)とも呼ばれるあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である。

別名、丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴(たんかく)姫の住まいがあったとすることからである。

最初のトイレ休憩は紀ノ川サービスエリア、煙たなびくのどかな風景が広がる。
和歌山平野・和歌山湾を一望できます。

二度目のトイレ休憩は、道の駅「熊野古道中辺路」牛馬童子ふれあいパーキング。
熊野古道の面影が色濃く残るなかへちの道の駅は、国道311号沿いにあり、古道を歩く人とドライバーの両者の休憩の地としてにぎわっています。

ここから少し山中に入ったところに花山法皇の伝説を残す牛馬童子像、また、近露王子や野長瀬一族の墓などの観光ポイントもすぐ近くにあります。

鐘の丸の南下に無料駐車場に車を停め、公園の南側を通る道を西へ歩いて来ると、城址南西に模擬大手門(冠木門)が建てられている。
最初から急な階段が続く。

冠木門をくぐり、真っ直ぐ伸びる石段を喘ぎながら登って行く。

新宮へ来ても新宮城へ立ち寄らない人が多いのではないだろうか、石垣の遺構の素晴らしい城跡だ。

石段を少し登ると、松の丸へ入る虎口へ出る。

松の丸へ入るとすぐ右手に鐘の丸への虎口がある。

そちらは後回しにしてまず、水の手へ回る。

水の手郭・炭納屋群跡
丹鶴城跡では過去数度発掘調査が行われたが、その最大の発見は水の手郭の炭納屋群遺構である。

この水の手は軍港であり、物資を輸出する経済的物流港でもあった。
その傍らにあるのが炭納屋群跡の遺跡である。

当時備長炭という上質な炭がいつも炭納屋に1万俵ほど保管されていた。
江戸城はじめ、江戸庶民の燃料源であった。

江戸の炭消費量の約3割を賄っていたといわれている。

また、三輪崎や太地で鯨を捕らせ、鯨油などを集めこれも江戸へ売った。
鯨油は貴重で、行灯の油として欠かせなかった。

この二つの燃料提供者であった第9代忠(ただ)央(なか)は他藩が羨む大富豪だった。

本丸の様子。
石垣の上に建っている土蔵風の建物はトイレ。

本丸はケーブルカー時代にかなり改変されているようで、天守台に直接登る階段ができていたりする。

遠く神倉神社を望む、実はここが「新宮」の地名の由来の地なのだ。

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。
新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。

山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

熊野三山の一つ熊野速玉大社は、全国に3000余社分祀されている熊野神社の総本山です。

大社は熊野三所権現降臨の神倉山から神を遷し、現在地に新たに宮殿が造られたことから「古宮」に対して「新宮」と呼ばれるようになりました。

これが市の名前の由来とされています。

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。

この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。

平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。

『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。

与謝野寛(鉄幹)の歌碑

「高く立ち秋の熊野の海を見て誰そ涙すや城の夕べに」

与謝野鉄幹が明治39年来新、大石誠之助、北原白秋らと熊野を漫遊したとき詠んだ歌。

本丸の北西部に突き出た一画があるが、櫓が建っていたのだろう。
その一角に、丹鶴姫の碑が立っている。

鎌倉幕府をひらいた源頼朝と、平家を倒したあと悲劇的な最期を遂げる源義経。
歴史に名をとどめるこの兄弟の叔母にあたるのが、新宮が産んだ女傑・丹鶴姫だ。

丹鶴姫の父・源為義は武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあった八幡太郎義家の孫。
この為義が後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 

「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、生地の新宮で一女一男を産んだ。

女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。

姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。
それがのちに第21代別当となる湛増だ。

夫の湛快の死後、19代別当行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したとされる丹鶴姫は、22代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。

義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときも事態を静観していた湛増は、戦局が進むにつれ、源平いずれにつくか迷った。

そこで、湛増は田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神意を伺ったという。

白は源氏、赤は平家の象徴だったが、蹴合いは白い鶏が勝った。
熊野水軍の兵船200余艘に乗った屈強の熊野衆2000余人は、屋島から壇ノ浦へと出陣した。

源氏の白い旗が船のへさきにひるがえるのを見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。

本丸北東の枡形門跡。
搦め手に当たる。
丹鶴姫の碑の横に搦手虎口があるが、現在はここからは降りられなくなっている。

本丸虎口は、通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設けている。

本丸下の郭から水の手曲輪を望む。

天守台はなぜか中央部が破壊されてしまっている。
そのために妙に幅の狭い石垣のように見えてしまう。

端の部分だけが細くそびえ建ち、なんとも異様な光景である。

下から、長く続く本丸の石垣を望む。

1954年には新宮城本丸周辺は民有地となっていて当時旅館業を営んでいた業者が通称二の丸(本来の二ノ丸は現在の正明保育園の場所に位置する)と本丸を結ぶケーブルカーを運行していたが、1980年(昭和55年)に休止し、1990年代正式廃線となっている。

地下には紀勢本線のトンネルが通されている。

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新宮城へのアクセス、行き方歩き方

住所:新宮市新宮7691-1

JR紀勢線「新宮駅」下車、徒歩10分。