熊野御幸記も今回で4回目です、前回の反省から今回はカメラを一回り小さくしました。
泉大津パーキングエリアでとりあえずトイレ休憩。
今日のスタート地点、JR和泉橋本駅。
前回はこの交差点まで歩きました。
南近義(みなみこぎ)神社
旧称は丹生神社・天野明神社という。
古く近木庄は高野山麓にある丹生明神社領であったという。
旧村社で罔象女神(みつはのめのかみ)(水神)・誉田別命・蛭子命・大国主命など9柱を祀っている。
神社は、少し荒れてはいるが静かな森の中にあり、鎮守の社として昔を今に伝えている。
この辺りは立派な家が多い。
眼の前をダンジリが走り去る、ちょうど秋の祭礼の時期だ。
奈加美神社
泉佐野市中庄にあり、創建時代は不明ですが、平安時代初期と考えられています。
旧の社名を大宮神社といい、この地域の中心の神社でした。
新しい名前の由来は中庄の「な」上瓦屋の「か」湊の「み」を取り3町合同の願いをこめて名づけられたそうです。
本殿は華麗な彩色の三間社流造で府の指定文化財です。
ススキの穂が爽やかです。
和歌山貝塚線を南西方向に進み、佐野川を越えると泉佐野市に入る。
バス停田出を越えて200m程行くと右に折れる道がある。
それを少し進むと佐野王子跡の石碑が立っている。
いかにも王子跡らしいが、実際の所判っておらず、推定地に建てたに過ぎない。
佐野王子跡近くの熊野古道碑。
古い道標です、「すぐ和歌山道」と詠めます。
「すぐ」の表示は、「すぐに」という意味ではなく「真っ直ぐに」という意味です。
また、直進でない「道なり」に進む場合も「すぐ」で表現することがある。
この辺りも立派なおうちが続く。
南の池公園で昼食です。
遠く紀泉高原の山並みが美しい、この辺りは既に刈り入れも済んでいます。
このまま真っ直ぐ歩くと長南中学校の建物が見えてきますが、その手前の駐車場の角に、「安松八丁畷の石地蔵」があります。
このお地蔵様、特に熊野古道と関わりがあるわけではないのですが、台石には天平十八年(1363年)の年号が刻まれているそうで…
ほぼ650年前から鎮座しておられると思われるお地蔵様なのです。
当然、熊野詣の人々の道行も見守っていたものと思われます。
塙(ばん)団右衛門直之の五輪塔
信長に仕えていた。
普段はおとなしい性格だが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用されていなかった。
秀吉にも仕えたが羽柴家でも重用されなかった。
後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍した。
朝鮮出兵にも参加して活躍し、350石の知行を与えられた。
しかし関ヶ原の戦いのとき、軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(城門に恨みの漢詩を貼り付けて去ったとも言われている)。
その後、諸将に仕えたが、いずれも旧主の嘉明による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。
大阪冬の陣に豊臣方として参加して活躍したが、翌年の大坂夏の陣で浅野の軍勢と戦って戦死した。(このときの旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を天下に知らしめた)
籾井王子はイズミモータースの奥、個人の住宅の庭にあります。
古い雰囲気をのこした街道沿いに塙団右衛門の墓少し進んで淡輪六郎兵衛の墓がある。
慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣の樫井合戦で豊臣方の先鋒隊を率いて、紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ、塙団衛門、淡輪六郎兵衛は4月29日早朝、熊野街道を南下し待ち構える浅野軍に突入した。
激戦が展開されたが大坂方は敗れこの地で討ち死にした、団衛門は時に48歳という、両者の縁者が墓を建てて弔っている。
街道を進むと明治大橋の手前に樫井古戦場跡の碑が。
史跡海会寺(かいえじ)跡
白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院「海会寺」跡とその建立を行なったとされる豪族の住居跡が完全な姿で発見され、国史跡の指定をうけています。
講堂跡の柱跡。
7世紀中頃から後半(白鳳時代の約1350年前)に建てられた、古代寺院の「海会寺」はとても保存状態が良く、これまでの発掘調査により、金堂 ・ 塔 ・ 講堂 ・ 回廊 ・ 南門 ・築地等の主要な伽藍が発見され、その伽藍配置は法隆寺式の伽藍配置であることが判明している。
回廊の柱跡、一段高い部分は五重の塔の築地。
豪族の屋敷跡。
畦道にはマンジュシャゲが咲いている。
厩戸王子
籾井王子から紀州街道旧道を西に1.5kmほど進み、海営宮池という池の近くの交差点を北に向かう脇道に入ったところに墓地があり、その北側に石碑と説明板がある。
信達宿本陣。
中世より熊野詣の宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道となり、本陣、旅籠など設けられたとの説明板があった。
信達市場の熊野古道碑。
信達宿の野田藤。
和泉砂川駅から熊野街道に出るとすぐ明王山往生院があります。… 3院6坊を擁する大寺院でしたが、信長の根来攻め時、明王山往生院と共に堂塔が焼失し、現在の諸堂宇は江戸時代に入って建立されたものです。
道路へ埋め込まれているプレート。
信達一ノ瀬王子跡は、往生院から少し歩いたところにあり、馬頭観音を祀っている。
境内はあっさりしている。
また、周辺はブロック塀に囲われているが、どうも味気ない。
うっかりすると見過ごしてしまう。
境内には説明板もないので、ここが歴史街道の王子跡ということも忘れ去られてしまうのではなかろうか?
このあたりの坂道は、定家の『熊野御幸記』によると、建仁元年(1201年)10月8日に、「天晴る 払暁道に出でて 信達一ノ瀬の王子に参ず 又坂の中において祓 次で地蔵堂の王子に参ず 次でウハ目の王子に参ず」とある。
私たちは、この坂道を直進せず、「左あたご道」と道標にある林昌寺に向かった。
林昌寺
天平年間行基菩薩によって開創された泉南の古刹です。
この地の水が鉱質に富むところから、山号を温泉山としたが、平安の後期に堀河天皇が当山に行幸の折、山つつじが見事なことから躑躅山と改められました。
織田信長の南逆征討の時に、3院6坊はことごとく焼失したが江戸時代初期から中期にかけて再建され現在に至っています。
美しく手入れされた庭園では、山号にもなっている躑躅が毎年五月ごろ色づきはじめます。
永禄8年2月28日長崎温泉(雲仙)山の修験僧祐海上人が、この地の海岸から不動明王の縁日である28日に渡海したという。
そのくだりは、山門の脇に建つ「補陀洛渡海碑」に記録されている。
薬師堂
山上へと続く参道、行ってみたいが体力も限界だ。
地蔵堂
山門を辞す。