北条五代の栄華を秘める 小田原城

名城の名をほしいままにしていた小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく落城、100年に亘る北条五代の関東支配は終焉を迎えた。

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。

往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていました。

二の丸側から撮影。
現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されている。

銅門は江戸時代の工法や技術を採用しているので、木材や白壁の材料となっている土の収縮具合などを確認するため、模型を事前に作成した。

現代の技術しか知らない人たちには大変な作業だったと思いますが、江戸時代からこれだけ立派な門が作らてていたというのも当時の技術も大したものだ。

石段を登り、常盤木門を目指す。

明応四年(1495)北条早雲(伊勢新九郎長氏)が大森藤頼への謀略で奪取したといわれている。
以後、氏綱、氏康、氏政の四代に亘り後北条氏の本拠となる。
町屋を城内に取り込み、天下無双の堅城と評された。

北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。

八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。
ともかく、名城の名をほしいままにしていた小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく落城、100年に亘る北条五代の関東支配は終焉を迎えた。

梅が咲き始め、松、白壁と映える。
思わず足を止め見入る人々。

常盤木門は本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。

元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。

常盤木とは常緑樹の意味で、門の横にあった松の木が常に緑色をたたえ何十年も生長することより、小田原城の永遠の繁栄を願って命名されたものだとか。
珍しい門の名前だ。

天守へ登る石段、桜が咲けばいい撮影ポイントになるだろう。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。

一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。
小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
真鶴御崎方面の眺め。

曽我の里を望む。

こちらは丹沢方面。

小田原城八幡山古墳を望む。
現在の小田原城天守閣から線路を越えたすぐ向いの「八幡山」一帯が後北条氏時代の城郭主要部で、中世の遺構が複数確認できる。

遠景は先ほどまで観光していた箱根。

石垣山一夜城を望む。

本丸広場からの天守。
午前中が順光で綺麗に撮れる。
元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。

古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。

江戸時代の遺構とされてきた小田原城址(じょうし)公園(同市城内)の「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」跡から、戦国・北条時代の庭園遺構が見つかった。
同曲輪跡では昨夏、同時代の主殿級建物跡の一部が出土している。

一連の発見で「市内でも先例のない近世、中世の複合遺跡」(市文化財課)に格上げされ、市は整備計画を大幅に見直すことになりそうだ。

馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。

門の構造は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ桝形形式。
なお、この復元によって馬出門、銅門、常盤木門、天守閣へと続く往時のルートが再現された。

平櫓は1934(昭和9)年復興。
二の丸南東角にある櫓で、関東大震災で倒壊するまで小田原城で唯一、残存していた櫓。
桜のシーズンには非常に美しい姿を見せる。

小峰橋【御茶壺橋】
江戸時代、宇治から将軍家に献上する際に幕府は御茶壺道中と呼び行列を仕立てて運搬、小田原城内には御茶壺を保管する為の御茶壺蔵が設置されていた。

お堀のほとりに植えられた藤は、もともと小田原城藩主の大久保氏が所有していた鉢植えだったもの。
大正天皇が皇太子時代に「見事な花」と感嘆したことから「御感の藤」と呼ばれるようになった。
その後、2株加えて計3株が現在の場所に移植されたという。
樹齢は一番古いもので推定200年と言われ、「かながわの名木100選」にも選ばれている。

「ういろう」はもとは薬の名前だったそうだ。
外郎さんの先祖はもともとは中国からの帰化人。
中国で千年つづいた名家で、1368年に元が滅んだ時に日本に亡命してきたそうだ。

京都に来て、先祖伝来の霊薬が珍重されて朝廷の典医になられる。
霊薬には「透頂香(とうちんこう)」という正式名がつけられたが外郎さんちの製薬だからこの薬のことを「ういろう」と呼ぶように。

海外のお客様が朝廷に来た時は接待担当も引き受け、外郎家ホームメイドのお菓子を提供していました。
それが米粉、餅粉、黒砂糖(orあめ、みつ。当時は白砂糖がないから)で作ったお菓子だった。

小田原城のお堀に沿って小田原市立三の丸小学校がある。
小田原城の雰囲気に合わせ、校舎が白壁と瓦屋根で造られていて、とても公立の小学校とは思えない素晴らしいな外観。
都市景観大賞を受賞。

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小田原城へのアクセス、行き方歩き方

〒250-0014
神奈川県小田原市城内6-1
TEL:0465-23-1373 (観光課 城址公園係)
JR東海道線・東海道新幹線・小田急小田原線「小田原駅」より徒歩約10分