今日は光芒撮影の本番、ホテルを5時出発です。
4時起床、見上げる空には月が、やった、晴れた!!
早朝出発でホテルの食事はなし、コンビニでおにぎりとサンドイッチを調達、朝食です。
昨夜のうちに管理組合と交渉、広河原への立ち入りの許可を取る。
広河原の一等地で待つこと1時間、水面に光が見えてくる。
僅かに光芒が射すが、こんなものではない。
辺りを見渡すとなんと昨日の地元のカメラマン氏が来ているではないか、色々と細かい情報を得る。
このままここに踏みとどまる選択はあるが、なんせ競争率が激しい。
カルラマン氏の教えに従い単独行動をとることとする。
少し下ったところで渓から立ち上る朝霧を撮る。
教えられた水天宮の橋のたもとで待つこと暫し、きたっ、強烈な光芒です。
撮影を始めてから2時間が経過している。
上流を見やると川面は青く光り、強烈な光の帯が水面を射る。
もう息をのむ美しさ、ただただ、シャッターを押しまくる。
光芒天使の梯子、レンブラント光線などの別名もある、ここでは木々から漏れた光が渓流を照らし、苔むした岩を照らす。
教えられた橋下に三脚を据え、しばらく観察。
撮影に夢中になったカメラマンは誰も動かない、夢中でシャッターを押しているのだろう。
すぐそばの苔むした岩に射すやさしい光、何とも言えない光景です。
朝の光芒は上流の広河原から時間とともに下流の方へ向って移動して行きます。
このような岩場を伝いながらの撮影です、当日はけが人が三人出た。
光芒を見ながらどんどん渓流を下る。
四十三万の滝の上部まで下ったがここからは河原を下ることができない、元来た道を引き返し、歩道を下る。
四十三万の滝、日本の滝100選の一つ。
菊池渓谷は阿蘇外輪山の溶結凝灰岩を浸食してできた渓谷で、両岸が切り立った深い谷に、瀬や滝が連続している。
紅葉の頃が美しい。
昭和9年、九州日々新聞社が景勝地募集を行ったところ、43万票を獲得し第1位になったことからこの名が付けられたとも言われる。
また、古老の話によれば1日の平均水量が43万石(約7.8万トン)と変わらないことから、そのように呼ばれていたともいう。
四十三万の滝から下流を見やると渦巻く水流が渓谷を駆け下る。
ここもこれより先へは危険で進めない、再び歩道に戻り下流を目指す。
天狗滝の上部から木の隙間を通して虹が見える。
足場はかなり危険な状態、無理をして河原へずり降りる。
素晴らしい光景です、苔むした柱状節理を光芒が照らす。
天狗滝を上から見たところ、先ほどここに虹が見えたのだが消えてしまった。
紅葉ヶ瀬下流、ここの光芒も素晴らしい。
黎明{れいめい)の滝、昨日の下見は霧に包まれていたが今日は朝日に光り輝いている。
角度を変えて待つこと暫し、素晴らしい光芒が現れました。
待っている間雨の予報ばかりでガッカリさせ続けていたのに、一転素晴らしい晴れ間をプレゼントしてくれました。
ありがとう。
熊本の奥座敷菊池は、栄華を極めた菊池一族の深い歴史と、色鮮やかに季節を映しだす美しき渓谷の郷。
「菊池一族の興亡」
九州一の渓谷美で人気を集める菊池渓谷と、なめらかな泉質を誇る温泉のまち菊池市。
母なる大河・菊池川の上流にあるここ菊池市には、もう一つの顔があります。
中世の肥後最大の豪族・「菊池一族」の本拠地だった歴史のまちです。
平安期に栄華をほしいままにした藤原氏の血をひく菊池一族が、中央での政争の巻き添えで大宰府の役職を離れ、肥後入国したのが延久2年(1069)。初代・菊池則隆公のときで、ここから一族興亡のドラマが始まる。
平家、源氏の武士が台頭。その後平清盛を筆頭とする平家が治め、やがて源頼朝が挙兵する源平合戦へ、と流れる歴史は皆さんよく御存知。
この頃菊池氏 6代・隆直公も、いち早く平家打倒を旗印に大宰府を攻めるが、結局平家の軍門に降ることになる。
その後特筆すべきは、鎌倉時代の中期蒙古襲来時における、10代・武房公の活躍である。
2度にわたって蒙古軍は北九州に襲来した。
(1274年・文永の役、1281年・弘安の役)時の幕府は西国の武士に出動を命じた。
このとき肥後から出陣したビッグ3が武房公、竹崎季長(下益城郡小川町)、大矢野三兄弟(天草郡大矢野町)である。
彼らの奮戦で蒙古軍は退散。
この戦いの模様は「蒙古襲来絵詞」という絵巻物に描かれており、原本は皇室にあるが、菊池神社歴史館に複製が展示してある。
元弘元年(1331)後醍醐天皇は、時の北条政権の討滅を謀ったが、北条方に察知され隠岐へ島流しとなる。
そして京都では別系の天皇が即位。
しかし後醍醐天皇は島から各地の武士へ決起をうながし、京畿では楠木正成が挙兵するなど、世は騒然としていた。
12代・武時公は、後醍醐天皇の勅詔と錦旗を奉じて、少弐、大友といった九州の有力武士と九州探題(福岡市姪浜)の北条英時を攻略しようとするが、両氏は離脱。
単独で一族郎党と探題に突入し、勇戦するが…。
敗戦必至と覚悟した武時公は、長男武重を呼びよせ、「故郷へ帰り一族を立て直して、北条を討つように」と遺訓を残して自害した。
「抽が浦の別れ」として語り伝えられ、後の楠木正成の「桜井の駅の別れ」のモデルになったという。
京都をめざす足利尊氏と新田義貞を大将とする朝廷方が箱根でぶつかったのが建武2年(1335)。
このとき尊氏討伐軍の先鋒をつとめた13代・武重公は、千の兵を率いて箱根山に進撃。
三千余騎の足利直義(尊氏の弟)と戦った。武重公は手頃の竹を切らせ、その先に短刀をつけた武器を作って待機。
直義軍めがけていっせいに槍を突きまくり、大きな成果をあげた。
この合戦の菊池軍によって初めて採用された戦法で、「菊池千本槍」として今日まで伝承されている。
また武重公は、菊池家憲と呼ばれる一族の結束を祈願した「寄合衆内談の事」を作成した。
一族の惣領の独裁ではなく、各有力氏族による合議で物事を決定しようというもの。
武重公の血判が押されてあり(血判文書としては最古のもの)、現在も菊池神社に保存されている。
後醍醐天皇は吉野(奈良県)へ移られ、尊子は京都で別の天皇をたて、いわゆる南北朝時代を迎える。
その直前に天皇は皇子懐良親王を征西将軍に任命し、九州に派遣。親王は九州の南朝方の主力・菊池氏を頼り、苦節13年の後に菊池に入る。
懐良親王を迎えたのが15代・武光公。
親王の指揮下、武光公が大将となって、北朝方の拠点大宰府へたびたび迫り、正平14年(1359)筑後川の戦いで勝利した。
親王は征西府を大宰府に移されるまでの約11年間、菊池で暮らされた。
親王の居城だった「雲上宮」、観月を楽しんだ「月見殿跡」は、菊池神社のすぐ近くで、今も往時の名残をとどめている。
また親王のお手植えのムクノキ「将軍木」の前の能舞台で、松囃子能をご覧になった。
菊池神社例祭のときには、現在もここで上演される。
菊池一族は始終南朝方だったが、肥後の守護大名的存在として幕府から遇された。
19代・持朝公のときには、筑後守護も与えられる繁栄振りが続く。
しかし22代・能運公には子がなく菊池嫡流が途絶え、天文12年(1542)、大友義鑑が菊池義武を追って、中世500年の歴史を刻んだ菊池一族の幕は下りたのである。
菊池渓谷へのアクセス、行き方歩き方
住所:熊本県菊池市原
電話:0968-25-7223(菊池市商工観光課)
熊本駅より熊本電鉄バス「菊池温泉」行き乗車。
終点「菊池温泉・市民広場前」下車。
菊池温泉より予約制「きくち観光あいのりタクシー(土,日,祝,振休,GW運行)」で菊池渓谷へ。
植木インターより県道53号線~国道387号線約50分