悲運の関白 秀次の居城 近江八幡山城跡

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豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。

代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期に八幡山城が廃城となると京極高次は大津城へ移った。

築城から10年で廃城となった。

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「八幡山頂駅」までロープウェイで4分。

みすがり観音。

お願い地蔵。

山上は涼しくまだアジサイが見られます。

アジサイの咲く道を進む。

西ノ丸跡に到着。

西の丸から琵琶湖、比良山方向の眺望がよい。

各曲輪の石垣の隅部分は算木積みになっており、加工された石材が使われている。
隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれており、本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用している。

石垣の傾斜も直線的で積まれ反りが見られない。

前方が安土、後方が観音寺山。

北の丸跡。

かなり雑に積まれているように見えるが・・・・

本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている。

平坦地奥に本堂が建ち、その右側に瑞興殿、その手前に開山塔が建てられています。

瑞龍寺は日蓮宗の寺院だが、独特の祭壇などの造りや装飾が目を惹く。

日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院であり、京都の村雲に開いて以後、代々皇女や公家の娘を管主としてお迎えしているという。

何代にもわたる管主がこの席で祈りを捧げられたのであろう。

天皇陛下の熨斗袋、我々が使うものとかなり違います。

瑞龍寺の中庭(本丸跡)、妙法の庭。
細かい説明は中央の説明にあるんですがそのタイトルだけをみますと、”妙法とは即ち是れ心なり”

庭の一角に置かれていた京都から運ばれてきたと思われる、菊の彫刻入りの珍しい鬼瓦もありました。

9世日尊尼代建立時の本堂正面鬼瓦(文政大仏師・八木治助作)

京都時代は「貴賓の間」として使われていた部屋の隣には応接セットが。

秀次公の銅像の原型も置かれました。

眼下にはのどかな近江平野を望む。

春もみじの真っ赤な色が鮮やか。

日牟禮八幡宮、691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる。
天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」。

三間流造。
宇佐の神を勧請して創建。
装飾に彩られた艶やかな本殿。

薪能「日触詣(ひむれもうで)」が 舞われる舞台。

近江八幡の地に4世紀のその昔、誉田別尊(ほんたわけのみこと)こと、応神天皇(神功皇后の息子)がふたつの日輪を見た、という縁起から明治に創作されたお能。

明治33年、日牟礼神社の能舞台改築竣工にあたり、八幡商人で西川伝右衛門家の十代当主、八幡銀行の設立者にして、数々の産業振興に貢献された業績も輝かしい西川貞二郎氏の志で、当時の京都の観世流能楽師林喜右衛門氏に依頼され、ものされました。

『日觸詣(ひむれもうで)』は、平成5年7月の薪能までほぼ93年間眠っていた曲です。
明治の知性に裏打ちされたすばらしい曲ながら、日牟礼神社の薪能が途絶えたいま、再び演じられる機会もなくお蔵入りになろうとしています。

負けずの鍔(がく)金龍さまはすべてダシになる食材で創られたそうです。

御本殿右手奥にある鏡池、見る者の虚偽を映し出すと言われている。

本殿裏の屏風岩が聳え立っていて威厳が伝わってきます。

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近江八幡山城跡へのアクセス、行き方歩き方

西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(琵琶湖線)・近江鉄道八日市線近江八幡駅下車→近江鉄道バス長命寺行きで大杉町停留所下車 徒歩5分→八幡山ロープウェー

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