雨宝山十輪院 元正天皇勅願の寺 河島英五も眠る

奈良県

寺伝では元正天皇(715-724年)の勅願寺とされ、右大臣・吉備真備の長男である「朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)」の開基とも伝えられている。

元興寺の旧境内の南東の隅に位置し、当初は元興寺の一子院だったようだ。
河島英五の墓はここにある。

戦前に日本に滞在した著名なドイツの建築家ブルーノ・タウトは、著作『忘れられた日本』の中で、「一般に外国人は、官庁発行の案内書やベデカーなどに賞賛せられているような事物に、東洋文化の源泉を求めようとする。

しかし奈良に来たら、まず小規模ではあるが非常に古い簡素優美な十輪院を訪ねて静かにその美を観照し、また近傍の素朴な街路などを心ゆくまで味わうがよい。」
と述べているそうだ。

南門
本堂の正面に建つ表門で、軽快な四脚門。
本堂と同じく厚板で軒を支えていまる。

装飾性のない簡素な構造形式であまり類例が見られない。
もとの位置は道路側に突き出ていました。築地塀が両側に続いています。

元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備(きびのまきび)の長男である朝野魚養(あさのなかい)が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。
中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。

森鴎外は
なつかしき十輪院は青き鳥 子等のたずぬる老人(おいびと)の庭」 と詠った。
世知辛く騒がしい世の中とは無関係な、悠久の歴史の中にある たたずまいが慕わしく思われたのでしょう。

水原秋桜子は
「優曇華や石龕きよく立つ仏龍王石をがむや雨の燕子花(かきつばた)」 と詠んでいる。

本堂
山門をくぐると、正面に軒が低く、柔らかな勾配の屋根を持った本堂(国宝)が見える
正面の蔀戸(しとみど)は当時の住宅を思わせるような繊細な印象を与え、貴族の邸宅の趣を感じさせる建物。

天井の高さは2.2メートルと、一般住宅よりも低いですが、圧迫感は感じられない。
堂内には石仏龕のほかに、弘法大師・空海、理源大師・聖宝の坐像を祀っている。
現在は本堂と称しているが、かつては礼堂(らいどう)と呼ばれていたようだ。

門を入るとこじんまりとした池を中心に手入れの行き届いた庭が迎えてくれる。
庭園は池を中心に造形されており、池の周囲は、ぐるりとひと回りすることができます。
河童やカエルの置物もかわいい。

石仏龕(がん)
全て花崗岩の切石を用いた日本では非常に珍しい石仏龕。

間口3メートル、奥行2.5メートル、高さ2.3メートルの規模で、地蔵菩薩立像を中心に、その手前左右の壁面に冥界の十王像、その手前左右には弥勒菩薩、釈迦如来、不動明王、観音菩薩を表し、さらに外側には五輪塔や持国天、多聞天、金剛力士(仁王)などの像を表す。

地蔵菩薩像は鎌倉時代前期頃、他の諸像はやや時代が降るとされている。
なお、この石仏龕は「彫刻」ではなく「建造物」として重要文化財に指定されている。

神仏習合(しんぶつしゅうごう)
今でも寺には鎮守の神様を祀っています。
境内に鳥居があるのは珍しくありません。

当山では、鎌倉時代の石の祠(ほこら)に伊勢大明神と春日大明神をお祀りして、般若心経をお唱えします。
十輪院ホームページより

十三重石塔(鎌倉時代)、
初層が極端に大きいのが面白い。
上部の三層が失われているそうだ。

本堂の脇に建つ「御影堂」。
1650年の建築で奈良県指定文化財となっている。
土台はコンクリート製になっていて、地下部分は「霊廟」となっている。

境内隅には当山開基と言われる朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の古墳も残っている。
朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない。

山門を入ると左手に護摩堂がありる。
不動明王および二童子(重文)を祀っている。

毎月8日・18日・28日の午後2時から、護摩祈祷が行われ、その日に限り開扉される。
また1月28日午後1時からは、『新春初ごま大祈とう』が行われる。

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十輪院へのアクセス、行き方歩き方

十輪院公式サイト

住所:〒630-8312 奈良市十輪院町27 
TEL.0742-26-6635

JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(天理駅行)「福智院町」下車、徒歩