秀吉と家康が唯一本気で対決した「小牧・長久手の戦い」

東海

この戦いで、秀吉は家康を完全に屈服させることに失敗し後に禍根を残すこととなる。
また、北条、伊達もこの戦でその後が決定してしまった感がある。

発端は「本能寺の変」、信長後の覇権争いの最終戦がこの地長久手で行われたことになる。
幸い付近は公園として残されたため貴重な古戦場が保存されている。

長久手町では羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」、ベルギーのワーテルロー市ではナポレオンがヨーロッパ制覇を目指して戦った「ワーテルローの戦い」が起こりました。

また、両市町の名前の由来も似ています。
長久手は「長湫(ながくて)」(長い湿地帯)、ワーテルローは「湿った低い草原」を意味する「Waterlots」が語源です。

古戦場を有するまち、まちの名前の語源が一緒という共通点から、平成4年に姉妹都市となりました。

樹林の中に秀吉軍の武将池田恒興(勝入)の戦死地を示す「勝入塚」がある。
「恒興の母は信長の乳母で、信長とは乳兄弟でした。
合戦時は大垣城主で、秀吉に味方した」

池田恒興(勝入)の戦死地を示す「勝入塚」

恒興とともに参戦した長男池田元助(幼名・庄九郎)の戦死地と伝わる。

すぐ西脇には「勝道九兵衛秀胤討死之処」の碑があるが、これは元々、長久手字鴉ヶ廻間にあったものが、昭和16年に移されたものである。

棒の手は、オマント(飾り馬)奉納の際その警護役として隊を組んで鉄砲隊とともに加わるものである。
これを警固祭りと言い、辻や社寺境内などで鉄砲隊の発砲と棒の手の奉納が行われる。
かつては青年組織により受け継がれ、各流派が師匠ごとに伝承活動を行っていたが、昭和30年に長久手市棒の手保存会が結成された。

現在は地区ごとの神社に奉納、警固祭りでの奉納のほか、保存会活動としてイベントなどでも、棒の手の演技を披露する。

小牧・長久手の戦いのあらまし

天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。

秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の3家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、信雄は天正12年(1584年3月6日)に親秀吉派の三家老を処刑し、徳川家康と同盟を結んだ。

こうして信雄は家康とともに挙兵し、家康が3月7日に出陣したことから、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。
秀吉は3月21日に大坂城を出発、3月27日に犬山城、4月5日に楽田(犬山市)に着陣する。
家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。

この状況を打開するため秀吉は徳川軍の陣地帯を迂回し、三河国方面にでる迂回作戦(中入り)を策定。
中入り部隊は4隊、総勢2万人で4月6日夜、家康の本拠地である三河国の岡崎城へと向けて出撃した。

通説ではこの作戦は恒興の献策とされるが、長久手の戦い直前に秀吉が丹羽長秀に宛てた書状などから、真相は秀吉自身の策である可能性が高い。
通説は『甫庵太閤記』が初出と思われる。

4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。
戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に徳川軍有利となった。
池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。
池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。
やがて恒興・森勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。

羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出たとされる。
これを長久手の戦い、または特に仏ケ根の戦いともいう。
この戦いで、秀吉は家康を完全に屈服させることに失敗し、征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道が閉ざされ、後の政治史へ大きな影響を及ぼすこととなったという説がある。

これは当時の観念では、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍となるためには、東国(特に関東)を支配することが必要条件とされており、戦国期に関東を支配していたのは北条氏だったが、家康は北条氏と同盟関係にあり、秀吉が東国・関東を支配するには、まず家康を屈服させる必要があったという説である。

小牧の役はこのように政治的色彩の極めて強い戦役だったと考えられている。
秀吉は家康を屈服させられず、後に北条氏を征服することには成功したものの、終始家康に対する不安と懸念の解消は果たせなかった。

その為、家康が秀吉に臣従した後も秀吉一門衆筆頭である豊臣秀長と同時に官位を上げられ、豊臣政権内の最上席を占める大名として扱われるようになった。
秀長、秀次の死後には内大臣となり、武家・公家の最上位を占めた。後の徳川幕府への道はここから始まっていたとも言われる。

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長久手古戦場へのアクセス、行き方歩き方

住所:愛知県長久手市武蔵塚204番地 (古戦場公園内)
電話:長久手市郷土資料室 0561-62-6230
リニモ「長久手古戦場」から徒歩約2 分、グリーンロード古戦場南交差点北