播磨の小京都 龍野城

兵庫県

龍野城は、標高210mの鶏籠山山頂の山城として築かれた時代と、現在の地、山麓を含めた平山城との二期に渡ります。

龍野御坊・圓光寺

山門の「龍頭」は見事。

圓光寺に残る宮本武蔵修練之地の石碑。
武蔵は18歳の時に龍野にあらわれ、円光寺で円明流を指導し印可状を与えたと伝えられている。
円光寺には、その印可状が残っているという。

如来寺。
豆板の小道には、民家、料亭などがある。

播磨の小京都と呼ばれ、狭い町並みに古い民家や醤油蔵、白壁の町並み、武家屋敷跡が・・・・・・

三木露風生家跡。

龍野城(霞城)・大手門から本丸後への登城道、今は龍野歴史文化資料館が建つ。

江戸時代龍野城主であった脇坂氏の初代が賤ケ岳の合戦で用いた十文字槍。

脇坂家の家紋、輪違い紋入り庭石。

龍野城(霞城)の大手門。

本丸の正面入り口にあたる埋門(うずみもん)。

龍野城本丸御殿
1672年に信州飯田から脇坂安政が入部したが、時代は太平の世でもあり、また安政が外様大名であった関係で(幕府の怒りを買わぬように)山麓居館部のみの陣屋形式の御殿にしたといわれている。

龍野城本丸御殿の中庭・日本庭園

御殿の襖絵「龍煌々志」。
龍野市出身の画家・出口龍憲氏により寄贈されたもの。

本丸御殿[上段の間]

これは会議室かな。

本丸御殿の左裏手に、鶏籠山の登山口がありました。

江戸時代に万治元年京極高和の丸亀移転の際に破却されたが、1672年に脇坂安政によって龍野城が再建された。
この際山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭になった。

隅櫓(模擬)。

今日の昼食は国民宿舎 赤とんぼ荘でいただいた。

そして日山(121m)への登山道が「童謡の径」になっていて近づくと童謡が流れだす仕組みになっているのだがすべて故障していた。
残念。

日山(121m)頂上から龍野市街を望む、流れる川は揖保川。

龍野といえば三木露風の「赤とんぼ」で知られる、側溝の蓋も赤とんぼです。

そして赤とんぼのマンホール。

脇坂家は元々外様大名であったが、安政は老中堀田正盛の次男であったため、天和3年(1683年)に願譜代となった。

のち、正規の譜代となっている。

安照の代の元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主浅野長矩が江戸城内で吉良上野介に対して刃傷事件を起し、即日切腹となり赤穂浅野家は改易となった。

隣藩であった龍野藩主安照は備中足守藩主木下公定とともに赤穂城受取使となる。

8代安董は28年にわたって寺社奉行を務め、老中まで累進している。
寺社奉行時代には西本願寺の騒動を裁断するなど仏教界の綱紀粛正に努めた。

老中時代には但馬国出石藩の仙石騒動を処断、家老仙石左京の獄門、藩の石高を半減するなどの辣腕を振るった。
このため、「5万石でも脇坂様は花のお江戸で知恵頭」と謳われた。

江戸時代に入り地元産の大豆・小麦、赤穂産の塩を原料とする醤油製造が盛んになり、天保年間(1830年 – 1844年)に至って隆盛を極めた。

醤油(特に薄口醤油)は現在でも龍野の特産品として知られている。

幕末の当藩は老中を輩出したこともあって佐幕であり、また幕府側も龍野藩を頼りにしていた。
しかし、10代安斐は第二次長州征伐において出兵はしたものの、播磨国内の赤穂郡で進軍を止めた。

以後、同藩は勤王に転じ、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では越後に出兵した。
明治4年(1871年)廃藩置県により龍野県となる。

その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。

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龍野城へのアクセス、行き方歩き方

兵庫県たつの市龍野町上霞城

姫新線「本竜野駅」から西へ徒歩20分