住吉大社で森女と邂逅 溺る一休

大阪府

森女と邂逅 溺る一休

一休が晩年に盲目の美女と同棲をしたらしいことは、広く知られていよう。
77歳のとき、一休は住吉大社薬師堂で盲女、森(しん)の舞を見て見初めます。

当時、森は一休より50歳以上若かったと言いますから、二十代だったのでしょう。
一休は彼女を当時住んでいた、京田辺の酬恩庵にともない、以後88歳で死ぬまで同棲します。

水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。

正木美術館に残る一休と森女の画像。

世にも有名な正木美術館に所蔵されている森侍者の肖像画に、描かれている森女は、ふくよかな顔立ちで、着衣も赤く、見えぬ身の前に、鼓を置いて正座する姿には、どこか清凛な感じがする。

『一休和尚、住吉大社参籠の時、老僧が歌を詠まれるかとの問いに「来て見ればここも火宅の宿ならめ何住吉と人のいうらん」と詠めば、老僧は「来てみればここも火宅の宿なれど、心をとめて住めばすみよし」と返して姿を消し、和尚は感心して住みついたという。』

一休禅師牀菜庵跡


一休禅師牀菜庵跡
[住所] 大阪市住吉区上住吉2-6 上住吉西公園内
[最寄り駅] 南海高野線「住吉東駅」西口より徒歩4分

翌文明2(1470)年、堺の豪商・尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した人物)がこの石碑のある場所に一庵を設け、一休さんを招請しました。
一休さんはここを「雲門庵」と称し、弟子ともども移り住み、数年後には庵をつくり「牀菜庵(しょうさいあん)」と号したそうです。

『狂雲集』は、一休が大徳寺の住持になるまでの壮大な叙事詩だという。
応仁の乱の戦火を逃れ、一休は、数年間、住吉に逗留していた。
その時、一休は「森女」を知る。

なんと大徳寺の第8世住持に

当時は神仏習合の時代。
住吉大社には「慈恩寺」という寺があった。
その寺の開山は、住吉の宮司津守氏の「卓然宗立」で、なんと大徳寺の第8世住持になっていたのだ。

当時、大徳寺は一休のライバル「養叟(ようそう)」一派に耳られていた。一休は兄弟子「養叟」を「禅を金で売る者」と激しく攻撃していた。
その後を受けて、一休は大徳寺の住持となるのである。
しかも、住持になる資格として 師の「華叟(かそう)」から与えられていた「印可状」を一休は破り捨てていた。
免許を取得しても、免許証を持っていなければ、資格がない。

そういう難しい条件の中で 一休は敵地「大徳寺」に乗り込む。
そこで 住吉大社のバックアップが必要だった。
一休は住吉をバックボーンにして大徳寺の住持になったのだ。

一介の托鉢僧でしかなかった一休が、法敵 養叟一派が居並ぶ大徳寺の住持になる。
その天にも昇る思いを「住吉の巫女」であり宮司の一族「森女」に託して詩にしたのだ。
「枯れた梅の老木も甦る」思い。

「森女」とは「住吉の森」「津の守=津守氏の女」だというのだ。

住吉行宮正印殿跡-国史跡(住吉区墨江2丁目)

森女は住吉大社の宮司津守氏の親族の女性だった。
住吉大社は、南朝の後村上天皇の行在所だった。
南朝の公家の娘を母に生まれた一休にとって深いつながりがあったのだ。
そして、住吉神宮と大徳寺も深いつながりがあった。
一休の死後、弟子たちによって編纂された『一休和尚年譜』の冒頭に、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、懐剣を懐に偲ばせ、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」とある。

血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、懐剣を懐に偲ばせ、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」とある。

一休は、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の楠の血筋で、北と南の板ばさみだったのだ。

一休は、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の楠の血筋で、北と南の板ばさみだったのだ。
6歳で「安国寺」に預けられるが、「安国寺」は、足利尊氏が滅ぼした後醍醐天皇をはじめ、楠正成、新田義貞ら南朝の忠臣の霊を祀るために建てられた寺だった。

そこで、曽祖父の楠正成の菩提を弔わせるために、いれられたのだが、もうひとつ理由がある。
それは、足利3代将軍義満は、自分の子供「義嗣」を次期天皇にしようと企み、一休が邪魔だったのだ。
一休は後醍醐帝の後、101代天皇になれる人だった。

北と南の双方の板挟みになり、また足利義満の監視下に置かれるという運命に抗ってか、一休は安国寺を飛び出す。
そして生涯を一蓑一笠の托鉢僧で過ごそうとする。

だが、一休は大阪の「住吉大社」にしばしば滞在している。
ここは、後醍醐天皇の子「村上天皇」の安在所だった。
そして、南朝に心を置く者たちがよく集まってきていた。
一休は77歳の時、ここで盲目の女性「森女」と出会い、薪村に連れて帰る。

また、神仏混淆の時代だから、神家の津守氏からは大徳寺の住持も出ているのだ。
一介の托鉢僧として生きてきた一休が、81歳で「大徳寺」の住持になれたのは、住吉大社の後押しがあったからという。

住吉神宮寺(じんぐうじ)跡

住吉大社境内 住吉文華館東
阪堺電鉄「住吉」下車 東約100m

神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたという。
当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。
明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。
なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

水上勉『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。
同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。

社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。
ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。

『狂雲集』には、一休は住吉大社で森に会い、心ひかれて詩を作った。
そして半年後再び住吉を訪れた時、森女に再会し、声をかけると、森女も「王孫の美誉」を伝え聞いて、一休のことを慕っていた。

それ以来、二人は一緒になった、とある。
これだけであるが、水上勉によって、森女は女乞食にされてしまった。

「森女の陰門は水仙の香りがする」などと どきつい表現から、一休は水上勉によって「エロ坊主」のレッテルを貼られてしまった。
水上勉ほどの作家をしても、一休の心根を理解するのは難しいといえる。

楚台応望更応攀 楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔 半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下 花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間 凌波の仙子腰間を繞る

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰<ほと>に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。

神社とも寺ともつかぬ堂宇で中仕切りになった土間を挟んで、約二間間口ぐらいの板の間舞台が、せり出してる。
一見して、能でも舞えるような空間である。

中仕切りの正面突き当りは、薬師如来堂で、そこには扉があって、お厨子が続いている。
横から回り込んでみると両方の舞台の後ろは、しとみ扉がはまり、まるで、楽屋から舞台へ出る上手、下手の出入り口となり、裏に三尺ぐらいの廊下があった。
これを眺めていると、何かの祭礼の時は、ここで舞技が見物人に披露されたことがはっきりする。

たぶん森侍者が三十五、六歳の若さと美貌を持って、そこで舞っていたなら、七十七歳の老僧にしても気をそそれたに違いないと思ったものだ。
水上勉「一休を歩く」より

兵火おさまるその年の秋末に、一休は住吉を去った。
盲目の美女おつれて・・・・・・
大楠は末広がりに根を張って、佇んでいるぼくの足元へ大蛇のように迫ってくる。
眺めるほどに、この大木は、森女の手を引いて薪村へ帰る一休も仰いだ木だったことがわかってくる。
水上勉「一休を歩く」より


一休 (中公文庫)

権力に抗し、教団を捨て、地獄の地平で痛憤の詩をうたい、盲目の森女との愛に惑溺してはばからなかった一休のその破戒無慙な生涯と禅境を追跡した谷崎賞受賞に輝く伝記文学の最高峰。

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住吉大社へのアクセス、行き方歩き方

住吉大社公式サイト
住所:〒558-0045 大阪市住吉区住吉 2丁目 9-89
TEL:06-6672-0753
FAX:06-6672-0110

阪堺線 住吉鳥居前駅 (徒歩0分)
上町線 住吉公園駅 (徒歩2分)
阪堺線・上町線 住吉駅 (徒歩4分)

南海本線 住吉大社駅 (徒歩3分)
高野線 住吉東駅 (徒歩5分)