この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年4月16日訪問時のものです。
例祭(翌日祭)神賑行事が4月16日平安神宮で行われた。
例祭(れいさい)または「例大祭(れいたいさい)」とは、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことであるとされる。
例祭では、天皇陛下からの勅使がご参向になり全国からの崇敬者が参列します。
神賑「しんしん・かみにぎわい」 行事は、神社の恒例祭の時に、神殿において神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、神楽や獅子舞い、舞楽、奉納武道、奉納相撲、競射、神輿、山車、仮装行列などさまざまな催しをするが、これらを総称して神賑行事という。
居ながらにして各花街の舞を一度に見れる貴重な一日だった。
折からの陽気で神苑の紅しだれ桜は見頃であるが、本日はぐっと我慢して神賑行事に専念することとした。
トップバッターは宮川町歌舞会さんの「姫三社」。
三社とは、伊勢神宮・奈良春日大社・石清水八幡宮のことで、江戸時代には、その三社へお参りに行くことが流行だったらしい。
そのなごりの舞が「姫三社」。
応天門をバックに舞います。
出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。
その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。
明治、大正、昭和33年(1958年)3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。
現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される。
舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている。
舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。
古式四條流さんの「包丁儀式」。
四条流の庖丁儀式とされる、巧みな庖丁さばきによる荘厳な技術披露が現在でも継承され、行われている。
藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法を烏帽子・直垂をまとった姿で再現し、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用いて、鯉・鯛・鰹などの素材に一切手を触れることなくさばいていくもので、各地の神事などで奉納されることがある。
次は『花柳芳麿社中』の方々による『今様』。
この今様という言葉は『現代風』といった意味で当時(平安時代)の流行が閉じ込められる踊りと言える。
祇園甲部歌舞会さんの「夜桜」「祇園小唄」。
享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。
この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。
この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。
江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。
昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。
笠井社中さん。
神楽の歴史には諸説様々なものがあり、現在でも不明瞭な部分が多く残されていますが、その創始は古く非常に歴史深いものであります。
現代において、笠井神楽の源流となる吉田家の神楽は、残念ではありますが残されておらず、我々神楽を伝承する者としては、古くからの形式・音色等をそのままに、舞と楽曲を尊び、巫女の天冠・緋袴など、古き良き文化を後世に伝えていく事が大切であると考えています。
また、同時に、近畿圏以外の官幣社に講習を行っており、できるだけ神楽を広く伝えられることができるよう願っております。
笠井神楽HPより
先斗町歌舞会さんの「京の四季」。
先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。
「町」と付くが地名としての先斗町はない。
もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。
繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりですでに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締られていたが当時、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした。
明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。
舞踊の流派は明治より以前は篠塚流、その後若柳流を経て現在は尾上流である。
箏 曲 東登美子社中
“源氏物語”を取り入れながら創作された舞踊が京都十二単舞踊。
「むらさき」というのは本来は源氏物語の紫式部をさすようだが。
むらさき太鼓は女性だけで構成されているのが特徴。
伝統的な美しい音色と近代的なシンセサイザー音楽とのコラボレーションにより、和太鼓の新たなパフォーマンスを見せる。
全身をバネのように使いながらステップを踏み、軽やかに、そして美しくダイナミックに舞う演奏スタイルはむらさき太鼓の見所の一つか。
祇園東歌舞会。
1881年に、第三代の京都府知事の命で祇園は甲部と乙部の二つに分けられ、1870年に取り払われた滋賀県膳所藩の広大な屋敷近辺とその屋敷跡地一帯のお茶屋が乙部と指定された。
祇園乙部は1949年に祇園東新地と名を改め、1955年頃から祇園東と称されて今日に至っている。
東大路と花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがる地域で、 最近は飲食店やスナックのビルが建ち並ぶ谷間で12軒のお茶屋が営業を続けている。
文中で頻繁に使用している「社中」とは本来は、同門の会(仲間)と言う意味があると聞く。
家元がいて、その直接弟子に当たる人達の集まりを、社中と称するものだと解する。
プログラムも最終にさしかかったころから雨がパラパラ。
急遽舞台を本殿に移し続行されたが、撮影禁止ということであえなく今回の取材は終了。
しかし、めったに入れない本殿に入れてもらえてよかったかな。
平安神宮へのアクセス、行き方歩き方
住 所:〒606-8341 京都市左京区岡崎西天王町
電 話:075-761-0221 FAX 075-761-0225
京阪電車の神宮丸太町駅か地下鉄東西線の東山駅が最寄