鑑真和上の御廟のそばと、御影堂供華園(くげえん)では、和上の故郷、中国揚州から送られた瓊花(けいか)の花が、春の終わりと夏の到来を告げるように、小さな白い花を咲かせます。
以前から瓊花を一目見たいと思いながら果たせずにいたが、soraさんから公開は5月6日までと教えられ早速訪れた。
世界文化遺産記念碑
1998(平成10)年「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されたのは、唐招提寺を始め、東大寺、興福寺、春日大社、春日大社原生林、元興寺、薬師寺、平城宮跡の8カ所。
鑑真和上の故郷である、江蘇省揚州市の名花で、ガクアジサイに似た白い可憐な花を咲かせる「瓊花(けいか)」の見頃に合わせ、毎年4月中旬~5月頃 9時~16時、御影堂供華園が特別開園されます。
中国の江蘇省、揚州市が原産です。
隋から唐の時代、「瓊花(チウンホア)」は「玉蘂」とも呼ばれ、その芳香のある黄白色の花が愛でられたといいます。
ただ不稔であったために、「聚八仙」という台木に接ぎ木して増やしていたそうですが、やがて元軍の進入とともに絶え、その後は残った台木の「聚八仙」が「瓊花」と呼ばれるようになったといいます。
わが国では、鑑真和上の縁で揚州市・大明寺から贈られたものが奈良県の唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されています。
「ムーシュウチュウ(木綉球)」の近縁種で、高さは4メートルほどになり、葉は卵形から楕円形の革質で、縁には細かい鋸歯があります。
4月から5月ごろ、白色の両性花とまわりに8個の真っ白な装飾花を咲かせます。
別名で「ハッセンカ(八仙花)」とも呼ばれます。
瓊花には青空とアオスジアゲハが似合う。
北原白秋句碑
水楢(みずなら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ
北原白秋(1885-1942は詩人であり歌人 新詩社で与謝野晶子、石川啄木らとともに時代を築いた)が唐招提寺の開祖である鑑真和上像に感動した時に詠んだと云われる歌である。
鑑真和上の墓所に向かう参道、緑がきれいだ。
参道脇の苔も青々。
瓊花は鑑真和上の御廟の傍にもあります。
1982年6月、唐招提寺を訪問された中国の首相・趙紫陽(当時)に、苗木を一株植樹して頂いたものです。
陽当りが悪いためか、上の部分にだけ少し咲いていました。
よく見ないと分かりません。
鑑真和上の御廟
ここ唐招提寺は井上靖さんの小説「天平の甍(いらか)」で有名です。
「天平の甍」は唐の高僧、鑑真和上が幾度の困難を乗り越え日本にやってくる苦難の道が書かれています。
唐とは「広く」、招提とは「四方の人々」の意で、「仏教を修学する人々が広く四方から集まる僧伽でありたい」という和上の願いが、寺名の由来となっています。
墓所では滴る緑が眩しい。
鑑真和上さまをお慰めするための 瓊花に降る雨に芭蕉が 和上さまを偲び 詠んだも。
わかばして おんめのしずく ぬぐわばや
蓮池の辺りも緑がいっぱい。
あやめが咲いています。
境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。
戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に放火により焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。
1978年にインド・サンチー式の古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。
唐招提寺の戒壇は創建時建立説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)初建立説とがある。
会津八一歌碑
おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
経蔵(きょうぞう)は 礼堂の東側に宝蔵とともに並んで建つ高床式の校倉(あぜくら)で、小さいほうが経蔵です。
唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉です。
そばのモミジをアップして見た、きれいだ。
蒼海も緑いっぱい。
唐招提寺へのアクセス、行き方歩き方
住所 〒630-8032 奈良市五条町13-46
電話番号 0742-33-7900
近畿日本鉄道橿原線西ノ京駅下車徒歩8分