この記事は誤って消去した記事の再掲です。
貞観の世から1150年幾多の変遷を辿り現代に受け継がれる生きとし生けるものの平安を願う国家鎮護の祈り。
鳥居中央上部の額の字形に特徴があり、八幡宮の「八」の字は向かい合った二羽の鳩が互いに顔だけを外に向けた形に作られてい。
この額は一条天皇の勅願で、天皇の勅により藤原行成が長徳年間(995~999年)に書いたものを松花堂昭乗が元和五年(1619年)に正確に書写し、それを銅製の額に打ち出したものという。
天武天皇は、諸国に放生の令を詔されこのような勅による放生は官放生という。
放生会は神社、寺院ともに盛んに行われたが、明治元年(1868)の神仏分離令以後は、神社側では中秋祭等に名称を変えて行っている場合が多い。
石清水八幡宮では、旧くは石清水放生会と称し、天暦2年(948)に勅祭となり、宮中の節会に準ずる祭りとされた。
神仏分離令後の明治17年(1884)、勅祭石清水祭として旧儀を復し、毎年9月15に皇室より上卿以下参向の上、祭儀が厳粛に斎行されてい。
現在は15日早朝、奉幣の儀の後、頓宮東側の放生川にて放生行事が行われている。
正式には大谷川という。しかし貞観5年(863年)より始まった「石清水放生会」(現在の石清水祭)で魚が放されたことに由来し、このあたり約200メートルの間は「放生川(ほうじょうがわ)」と呼ばれている。
その放生川には、かつて行われていた「安居神事」に由来するという安居橋(あんごばし)が架かっていて、その風景は昭和57年に公募で市によって制定された八幡八景の一つに数えられている。
一帯は「やわた放生の景」として公園や道が石畳も美しく整備され地域の人達の憩の場所になっている。
午前8時 放生会
(祝詞奉唱のなか、川へ魚が、空へは鳩が放される。
放生川へ放魚
午前8時の放生行事では「平安雅楽会」(京都市)の小学生4人が背中に羽を付けた装束で胡蝶(こちょう)の舞を披露した。
石清水八幡宮は遷座当初から国家、皇室、さらに武家の守護神として尊崇されてきたためか、もっぱら地域の人々が心のよりどころにした氏神は「高良神社」であった。神社の例祭は毎年7月17日、18日に行われ、通称「太鼓祭り」として親しまれている。
高良神社の有名な逸話として、元徳3年(1331)、兼好法師が著した「徒然草」に見ることができる。
「ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。
何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。
後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した」というものだ。
午前9時 法華三昧法要
(頓宮の舞台で比叡山延暦寺の僧侶による法要が行われる)
神仏習合の新しい動きがある。
午前10時 舞楽奉納
午後5時 還幸の儀
(頓宮から御鳳輦へご神体をうつし、行列を従え、山上のご本殿へお戻りになられる)
勅祭 石清水祭の表示が見られます。
「社殿」は貞観2年(860)に建立遷座以来、造営、修理が繰り返され、現在の社殿は寛永11年(1634)に三代将軍家光によって建造されたものと言われている。
社殿はほぼ正確に南向きに建てられているが、参道はやや東向きに伸びている。
これは、参拝者が参拝後に帰るとき、祭神に対しまっすぐに尻が向かないように配慮されているためという。
勅使斎館
伊勢神宮遥拝所、東外門の東
表参道の中間にある、影清(かげきよ)塚と、右端に見えるのが手水鉢です。
この場所には、かつて瀬織津姫を祀る祓谷社があったそうです。
6月と12月の大祓では、昔は人形を流す祓いの行事が行われ、参詣人もこの清水に己の影を写して心身を祓い清めたそうです。
「かげきよ」と言うのは「影清め」、「姿を清める所」という意味で、手水鉢はその名残りを留めていると言える、と石清水八幡宮HPの説明にあります。
9歳で、石清水八幡宮の社僧となった、松花堂昭乗は、書や画を究め、晩年、ここに、”松花堂”という、小さな草庵を立てて、隠居したという。
書は、弘法大師や紀貫之を目指し、画は、狩野山楽に学び、和歌や茶道、作庭にも長けた、学徳兼備の人であったそうです。
昭和8年、吉兆の創業者、湯木貞一が松花堂昭乗の旧跡での茶会に出向いた折、 ある部屋の片隅に置いてある四角い器を見つけました。
これに料理を盛ってみたところ大評判となりました。これが、松花堂弁当のはじまり。
白熱灯を発明した、トーマス・エジソンは、木綿糸のフィラメントより、長い時間、輝かせるため、世界各地のいろんな素材を使って、実験をしたそうです。
結果、石清水八幡宮の真竹が、2450時間も、輝き続け、このエジソンの偉業と、男山の竹が果たした役割を永く顕彰するため、昭和9年、記念碑が建てられ、その後、昭和59年に、再建されたのだそうです。
闕所、所払いとなった淀屋辰五郎は宝永6年(1709年)、大阪の地を離れ、江戸に潜行します。そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡の山林300石が淀屋に返還されます。
そしてその翌年の享保元年(1716年)に辰五郎は八幡に帰ってきて男山のすそ野に近い八幡柴座の地に住まいを構えました。
淀屋辰五郎旧邸跡の碑が建っている所には、辰五郎が住まいしていた当時の門だけが残っています。
◆和泉式部 平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人・和泉式部(生没年不詳、978/974?- 1014?)についての伝承がある。
和泉式部は、娘の小式部内侍(999-1025)に先立たれ、無常感から女官2人とともに播州・書写山の天台僧・性空(しょうくう、910-1007)を訪ねる。
上人は、阿弥陀如来の化身、石清水八幡宮の八幡大菩薩が女人往生できると告げる。
式部が、石清水での7日7夜のお籠りをすると、夢に八幡大菩薩が現れる。
「神の道に入り久しく仏の道を忘れた。誓願寺の阿弥陀如来は一切衆生を極楽へと導くので誓願寺で祈るよう」にと告げる。
石清水八幡宮への行き方・歩き方
住所:京都府八幡市八幡高坊30
Tel:075-981-3001 石清水八幡宮社務所
大阪環状線「京橋駅」または奈良線「東福寺駅」から京阪電車「八幡市駅」~男山ケーブル約3分「男山山上駅」~徒歩5分