現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を越え、京都市職員厚生会職員会館のあたりで河川敷に姿を現す。
そのまま二条橋の下を流れ、その流れの一部が高瀬川源流庭苑へ入り、高瀬川に注ぎ込んでいる。
「がんこ高瀬川二条苑」は一之舟入の斜め向かいにあって、高い石垣で1,100坪の敷地を囲まれている。
見慣れた「がんこ」の看板がなければ、どこかのお屋敷か高級料亭と間違えてしまう。
この庭を通ってきた流れは、木屋町通りをくぐってこの橋の下から一之船入(いちのふねいり)へ注ぎ、みんなが知っている「高瀬川」となる。
”おおよそ380年前の慶長16年 了以によってつくられた当庭園はその後、明治の元勲山県有朋の別邸「第二無鄰庵」となり第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸等をへて現在は大岩邸として伝わり、がんこ二条苑高瀬川源流庭園となっております。”(がんこ二条苑のパンフより)
パンフレットの説明では少々わかりづらいが、要するに所有者は隣の大岩さんでがんこはそれを借りているということだろう。
垣根の向こうは鴨川。
高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水、庭園に入ってくる。
山県が「無鄰菴」と名付けた邸宅は三つあります。
最初の無鄰菴は、現下関市吉田にあったもので、この庵は一時、高杉晋作の菩提所として使用されました。
二つ目が、この高瀬川源流に位置する、第二無鄰菴です。
そして三つ目は、京都市左京区南禅寺近くにある、(第三)無鄰菴です。
現在の数奇屋の建物と庭園は、山縣有朋の第二無鄰菴時代のもので、ほぼ当初のまま残っています。
庭園自体は元々あった角倉了以邸の庭園を改修したものですが、その庭園を改修し、現在のような姿にしたのが近代における名作庭家、七代・小川冶兵衛です。
了以は商人であると同時に、国内の河川開発に従事し,大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行い、舟運を開いた人物として歴史に名を記している。
高瀬川開発には7万5千両を費やしたとされているが、角倉家に納められる通行料は年間1万両を超えるものだったと考えられる。
開発に費やした工事費をわずか8年で回収したことから、かなり高額な通行料にも思えるが、これでも人馬で運ぶ手間よりは安かったので、鉄道輸送が本格化するまでは利用されてきた。
高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家は、二条大橋南西一帯に物資積みおろしを行った一之舟入や高瀬舟の運航を管理し,運送業者から手数料を徴収するため、邸宅を構えた。
明治2年(1869)角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管された。
そして大正9年(1920)に水運は廃止された。
さざれ石、瀬田川の虎石など巨石の庭園。
向こうに鴨川が見えているが、右手は川床へ通じる。
向こうに見えるのは小堀遠州により作庭された茶庭。秀吉好みの茶室。
中央部の、飛び石橋の向こうに黒く口を開けているのが流出口。
庭園を出た高瀬川は一之舟入へと流れてゆく。
それにしてもこんな素晴らしい庭園が3.000円少々の食事代で鑑賞できることはありがたいことだ。
一の舟入に復元されている高瀬川
日本銀行 京都支店
高瀬川は現在では水深10センチにもならず川幅も4メートルぐらいと思われるが建設当時は水深30センチあり川幅も8ーメートルあった。
船の方向転換、荷物の積み下ろしのための舟入は二条通りから七条通りまで9ヶ所ありましたが現在は一ヶ所のみ残ってる。
高瀬川水運に用いられた高瀬舟は幅2メートル、長さ13メートル、約25石積( 2.25 トン )であった。
高瀬川 舟入乃 灯影に明く 春の雪 乙郎(那須乙郎)
日本銀行京都支店の敷地はかっては 角倉了以の本宅があった。
高瀬川二条苑へのアクセス、行き方歩き方
住所:〒604-0922 京都市中京区木屋町通二条下ル東生洲町484-6
がんこ 高瀬川二条苑075-223-3456
京阪電鉄本線三条駅 徒歩7分
地下鉄東西線京都市役所前駅 徒歩4分