萩城下散策

萩城下町は、徳川幕府との対立を経て天皇を中心とする近代的統一国家の形成を主導した西南雄藩のひとつである萩藩の政治的・経済的・文化的・軍事的な拠点でした。

当時の地割りが今も変わることなくよく残っており、近世の封建社会がわかる典型的な町として現在に受け継がれています。

田中義一
陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。
萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)に生まれた。

父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。

萩博物館に復元された三の丸隅櫓(旧大野毛利家屋敷)

長屋門

博物館の長い海鼠塀が続く。

萩市立西中学校の塀。

落ち着いた雰囲気を見せる萩高校の塀。

旧福原家萩屋敷門
萩藩永代家老福原家の萩上屋敷の表門です。
江戸時代中期の建物で、腕木門で両袖に潜戸が付いています。

重臣の武家屋敷の門は殆ど門番所のある長屋門ですが、門番所のないこの形式は非常に珍しく貴重なものです。

長居塀が続くが、ここは萩藩主毛利家墓所。

ここは以前輝元の隠居所である四本松邸があり、死後に菩提寺として天樹院(輝元の法号)が創建されましたが、明治2年(1869)廃寺となり墓所のみが残りました。
大照院、東光寺とともに国の史跡に指定されています。

毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び殉死者長井治郎左衛門の墓石があり、これらは花崗岩製の五輪塔形です。

元天寿院の門の横には毛利輝元が火葬された場所が残っています。
火葬だったという事も印象的ですが、その場所が残っている事も驚きです。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
毛利家一門のひとつである厚狭毛利家の武家屋敷。
厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(厚狭郡山陽町)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを領した。

梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇る。

5つに区画された内部には土間がなく、特に東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に対して用意された詰所であったと思われる。

詰丸・本丸・二の丸の復元模型(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の展示)

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