平成の天下普請で復元・修理された 明石城

JR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。
縄張りは連郭梯郭混合式の平山城である。

丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となった。

別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。

明石城正面入口
中堀に架かる橋を渡ったところは、かつて三の丸・居屋敷曲輪への虎口である太鼓門があった場所。

明石城は信濃の松本から入部した小笠原忠真によって築城された。
忠真は最初船上城に入り、元和五年から明石城の築城を着工した。

城の資材には付近の廃城となった三木城、高砂城、船上城、枝吉城などが解体されて運び込まれた。

小笠原氏の後に入部してきたのは、戸田光重、大久保忠職、松平忠国、松平信之、本田政利と城主交替はめまぐるしく行われていった。

そしてその後に入った松平直明の松平氏がそのまま明治まで十代続くことになるが、先の松平氏と比べ、こちらの松平氏を後の松平と呼ばれている。

藤見池越しから絵を描いているかたもいらっしゃいました。

武蔵の庭園
剣豪宮本武蔵(1584-1645)の出生地についてはこれまで諸説がありましたが、最近では現在の高砂市米田であると認知されています。

武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を究めたのですが、特に 出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。

ここ明石においても、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割り(=都市計画)や城内樹木屋敷の設営にかかわりました。

台地下からみた巽櫓と坤櫓。
下の平城部分はかなり広く、この公園部分の他にも野球場や陸上競技場がある。

現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されている。
櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けたが全面修復された。

坤櫓は本丸にかつて4基あった櫓の中でも最大のものである。
伏見城から移築されたものと伝えられている。

巽櫓はかつては高山右近の船上城のあったものだという。

広場から本丸へ向かう。

坤櫓下の高石垣、なかなかのものだ。

本丸と北側の桜堀周辺は都市緑化植物園区域とされ樹木が生い茂る。
本丸の南は西芝生広場が、桜堀の北西には広大な剛ノ池が広がる。

本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。

巽櫓と坤櫓が白い土塀で結ばれ「喜晴城」の美しい姿が甦った。
土塀前には見学しやすいように展望台が敷設されている。
巽櫓右後方には、微かに明石海峡大橋が見える。

市立図書館の方に歩くと、阪神大震災で少し移動した「明石空襲の碑」があった。

明石のマンホール、日本の標準時刻はここから。
というわけで、天文台と子午線をモチーフにした、大変分かりやすいマンホールです。

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明石城へのアクセス、行き方歩き方

住所:兵庫県明石市明石公園1-27
電話:078-912-7600

JR山陽本線、明石駅、または、山陽電鉄、明石駅下車、北へ徒歩1分