高井田~鴻池新田 初夏を感じてぶらり

大阪府
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前回、高井田から長瀬川を南に歩いたので今回は北に歩きます。

新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ
長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。 流域の小高い土地に開けた高井 … 続きを読む →

長瀬川、大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。

八尾市に入ってすぐの八尾市二俣で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。

JR西日本大和路線八尾駅付近からは流路の屈曲がやや激しくなる。

東大阪市に入ると多少の屈曲はあるもののおおむね北流し、国道308号をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流する。

ただ今、6時過ぎ、差し込む朝日は強烈です。

放出駅 – 久宝寺駅の南区間が2008年3月15日に「おおさか東線」として部分開業しており、残る新大阪駅 – 放出駅の北区間が2019年3月16日に開業した。

淀川橋梁に併設された赤川仮橋では2013年10月31日に閉鎖されるまでの間、貨物列車を間近に見ることができた。

ありがとう赤川鉄橋
昭和4年から85年間、地域住民から長らく愛されてきた「赤川仮橋」が10月31日2 … 続きを読む →


川俣スカイランド(川俣水みらいセンター)
川俣下水処理場の屋上にある公園。

東大阪市の「川俣水みらいセンター」の屋上を利用した公園です。

屋上というと狭いイメージがあるかもしれませんが、ここには、野球も出来る多目的グラウンドをはじめ、芝生広場や水辺の広場、幼児広場など広大な敷地が広がっています。

川俣スカイランド過ぎると第2寝屋川に突き当たる、ここから川沿いに北上。

第2寝屋川

平成12年ごろから始まった再開発計画により、分譲マンションが立ち並ぶ一方で、商店街を抜けるとノスタルジックな雰囲気が漂う放出駅前の町並み。

おおさか東線の接続駅でもあるこの駅と高井田中央駅間にある車両基地では、計20名の社員で昼夜、車両のメンテナンスを行っている。

江戸時代中期~後期にかけ、同市の稲田地区で盛んに栽培されていた「稲田桃」。

稲田桃は日本古来の野生種で、実が小さく先がとがっているのが特徴。

お盆の供え物として大阪市内や京都へ出荷され重宝されていた。

当時は同地域の約7割が桃林だったといわれ、江戸時代の「河内名所図会」には、川に舟を浮かべて花見を楽しむ様子が描かれているという。

江戸時代後期ごろからは河内木綿の栽培が盛んになって桃の栽培は減り、1885(明治18)年の大洪水で大半が枯死した。

司馬遼太郎記念館でも庭に植えてあり季節にはタイミングが良ければいただくことができる。

放出の近くの踏切、左が学研都市線、右がおおさか東線。

長瀬川はこの先で第2寝屋川と合流。

阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)は、大阪市鶴見区にある神社。

延喜式神名帳に記されている式内社で、旧社格は、郷社。

江戸時代の頃は八剣神社と称されていたが、延喜式式内社の比定を行った並河誠所により、当社が延喜式における阿遅速雄神社にあたるとして、「阿遅速雄社社号標石」をおいた。

それ以降、阿遅速雄神社と呼ばれるようになった。

起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げられ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。

そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたと伝わる。

明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座した。

大クスノキ

樹齢1000年と伝わるクスノキで樹高16メートル、幹周り6メートルの巨木。

大正時代に落雷に遭い主幹が枯れてしまったが、樹木医の治療により支幹は健在である。

昭和45年(1963年)2月20日、「阿遅速雄神社のクス」の名称で大阪府により天然記念物に指定された。

昔、鴻池新田会所へ舟で米を運んだ「鴻池井路」という水路は、今ではせせらぎのある遊歩道「鴻池四季彩々とおり」へと生まれ変わり、全長約3kmのウォーキングコースとして、地域の方には親しまれています。

井路とは水路、灌漑用水路のこと。

遊歩道には夏の花アガパンサスが咲いてた。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、鴻池善右衛門宗利によって開墾された。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。
2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

コロナ過で今は休園中です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の〇〇」「三島の〇〇」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった。

鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

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