隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木

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琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧のフィヨルドのような美しさ。

かつての監視門であった茅葺きの四足門(しそくもん)をくぐると、そこは懐かしい漁村の風景が広がります。

集落の東西の出入口には「四足門(しそくもん)」と呼ばれる茅葺き屋根の門、関所の役割と共に、有事の際には倒壊させてバリケードにしたという説も残されています。

764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂の乱の際に逃れた淳仁天皇の隠棲伝説も伝わり、須賀神社(旧・保良神社)の祭神として祀られている。

恵美押勝の乱で敗れた淳仁天皇が都を追われてこの地に隠棲したというものです。

通説では淡路の敗帝となり淡路(現在の兵庫県)に遷じられて崩御されたと伝わっていますが、実は「淡路」は「淡海」の誤読であり、都を追われた天皇が葛篭に乗り、琵琶湖を渡ってこの地で隠棲されたという逸話があります。

また、1573年(天正元年)、小谷城落城の際に浅井長政の子の万菊丸が菅浦の現・安相寺に逃れたという伝承もある。

ここからは土足厳禁。

『かくれ里』白洲正子 新潮社

正子は、こうした菅浦に伝わる話を『かくれ里』にこう書いている。伝承の真偽はともかく、「そのような伝説が、ひそかに伝えられて来た事実はやはり私の心をひく。そして、それが菅浦の歴史であり、信仰でもあることを、私は疑う気にはなれないでいる」。

千数百年を経た今も、語り継がれる伝説と人々の信仰心に正子は敬意すら覚えた。

往時この地は辺境の地に有って外界からの交通手段といえば湖上からの水運しかなく排他的で自主独立心の強い集落で、警察署や消防署も無く、惣と呼ばれる自治組織が発達していた。

菅浦は、天皇に供える食物を献上する贄人(にえひと)が定着したのが始まりとされる。

葛籠尾崎の付け根部分に位置する菅浦は、険しい山に囲まれているため、水運主体の隔絶された集落であった。

これにより早くから惣村(そうそん)が形成され、自検断を行使して、近江国を領有した京極氏や浅井氏の統治を嫌い、対立したこともあった。

浜辺には「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場が残る。

これら集落の掟と動向ならびに構造は、1917年(大正6年)に須賀神社より発見された「菅浦文書(すがうらもんじょ)」(国宝[10]、須賀神社蔵・滋賀大学経済学部付属史料館寄託)に詳細に記されており、近隣の大浦(大浦庄)との激しい争いもよく知られる。

また、菅浦は両墓制であり、門外の埋め墓へ遺体は埋葬され、門内の寺院境内に詣り墓が設けられている。

菅浦口より菅浦集落を望む。

山の中腹に奥琵琶湖パークウェイの桜並木が見える。

昭和46年に造られた奥琵琶湖パークウェイは大浦と月出の間 、全長18.8kmにわたる県営の有料観光道路として造られましたが、償還が終わり現在は無料で通行できます。

道路に立っている看板などには桜並木4000本と宣伝されています。

パークウェイは月出側の道路がいたる所、崖が崩壊しており大浦~菅浦経由の一方通行で運用されています。

沖に竹生島が見える、葛籠尾崎と竹生島の間は、沖合約2Km。

今日はドンピシャの満開、少し肌寒いが気持ちよく花見ができた。

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