高知散策

モネの庭訪問のつなぎとして高知のビジネスホテルに2泊、朝と夜は例によって散策です。

高知駅は外観はきれいになったが、IC化は遅れているしJR民営化のとばっちりを受けて周辺の鉄道網が悪化した。

飲食街も少なく、はりまや橋周辺まで出かける必要がある。

軌道事業(路面電車)として高知市内で伊野線・後免線・桟橋線の3つの路線を、高知県内を中心としたエリアで路線バス・高速バス・貸切バスをそれぞれ運営していた。

路面電車の3路線は、はりまや橋停留場で交差しており、総延長は25.3kmで、広島電鉄に次ぐ(宮島線を除けば日本最大)規模の路線を有する。

後免線・伊野線と桟橋線を乗り換える場合は、はりまや橋(デンテツターミナルビル前:後免線から)で運賃を支払った上で、乗務員から乗換券の発行を受けると直通運賃と同額で済む。

はりまや橋、日本3大がっかり名所。

有名観光スポットだけど、行ってみたらがっかりした場所、いわゆる日本三大がっかり名所とは、札幌の時計台・高知のはりまや橋は共通の意見ですが、3つ目には沖縄の守礼門・長崎のオランダ坂など、幾つかの説があるようです。

高知城下の東郊に、名刹五台山竹林寺がある。

その山下の五台山村の鋳掛屋の娘お馬(1839~98)は、娘時代、小倉六右衛門という藩士の上女中になったが、やがて五台山の脇坊の若い僧純信(1829~?)と深い仲になった。

幕藩時代、僧の破戒は、法で罰せられた。
くりかえすようだが、僧の恋は戒律の上でも破戒で、法の上でも犯罪だったのである。

たれかが、お馬・純信の恋を知って、

  土佐の高知の播磨屋橋で、
    坊さんかんざし買うを見た

と、まことに名作としか言いようのない歌詞をつくってうたうと、作品の力で大いに流行し、ひとびとがうたった。

お馬も純信も、唄が流行してから自分たちの秘めた恋が露顕していることを知り、おどろいて国拉げ(脱藩)してしまった。

すでに幕末のさわぎがはじまっている安政2(1855)年のことである。
 
かれらは、檮原の番所からは脱けなかった。
当時はまだ檮原の番所は名だたる堅固さであったのであろう。

讃岐(香川県)ざかいの山をこえて琴平に逃げ、潜伏していたが、やがて関所破りの罪で両人とも逮捕され、高知城下で生晒しの刑をうけた。
 
国抜けは、武士ならば死罪だが、女と僧でもあり、それに原因が恋で、藩を見限ったという藩主への侮辱ではないから、軽かったのである。

晒の後、追放になった。
純信は遠く九州へ行き、お馬は藩によって仁淀川以西に住め、という追放刑を受けた。

彼女はのち須崎の大工と結婚し、明治後は東京に出て天寿を全うしたらしい。

司馬遼太郎「檮原街道」より

元来は堀川に架かる小橋であったが、1928年の土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市の街路整備により、同市の目抜き通りに一変した。

1960年代に入ると、製紙工場からの排水に起因する市街地河川の水質汚濁が顕著となり、堀川はほぼ全長に渡って埋め立てられた。

路面電車、はりまや橋停留所を入ったあたりは商店街が密集、一大繁華街だ。

本格土佐料理 とさ市場
高知の観光名所「はりまや橋」すぐ近く!カツオの塩タタキなど高知の料理が勢ぞろい!

二日ともここで夕食。名物カツオのたたきに、銘酒、司牡丹、酔鯨と辛口の酒をいただく。

二日目は珍味盛り合わせに挑戦。

どろめ、酒盗、チャンバラ貝、まいご、のれそれと酒の肴に申し分ない。

ウツボのウス造り、最初の日に聞いたが、月に2~3回あればいいほうだ、あればラッキーといわれた。

二日目に訪れた時ダメもとで聞いてみた、あるよっとのこと、早速いただくことに。
歯ごたえがしっかりして、フグのうす造りよりもっと歯ごたえがあり、美味、酒も進む。

江ノ口川に架かるこうち橋からの夕景、おいしい魚に、うまい酒…酔いしれてホテルまでの道、夜風がほほに心地よい。

マンホールのふた、海から飛び跳ねているカツオ、雲、よさこい祭の鳴子が描かれています。

こちらは高知沖を流れる太平洋の黒潮の波と土佐湾近海を回遊するクジラがデザインされています。

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