幽斎の正室麝香の里 熊川城跡


熊川城は若狭と近江を結ぶ若狭街道の熊川宿を猊下する山の中腹(標高180m付近)付近に築かれ、尾根が西と北に分かれる小ピークに主曲輪をおき、熊川宿へ延びる東尾根に階段状の曲輪を連郭式に配した山城。

熊川宿のほぼ中央の白石神社の本殿横から九十九折りに急斜面を登る。
斜面につけられた道は獣道に毛が生えた程度で、足場がスリップすると谷底まで落ちる危険極まりない。

なお、細川藤孝(後の幽斎)の妻は熊川城主・沼田氏の娘といわれる。

城主の沼田氏は観応2年(1351)に足利尊氏から瓜生庄下司職を賜り、居館を城の北側の山裾に構えたと伝えられている。

戦国時代には若狭国守護武田家の家臣である松宮家の被官だったようだが、沼田光兼が熊川城を築城した頃から細川氏に近づいていたようで、麝香(光寿院)が細川藤孝の正室となり、跡を継いだ沼田清延(足利義昭の詰衆)の娘「いと」は細川興元の正室になっている。

そのような中、永禄12年(1569)に沼田勘解由が松宮玄蕃助の侵攻を受け敗れると熊川城を追われ、細川忠興を頼り近江(現在の滋賀県)に逃れている。

その後は忠興の客将となり、朝鮮出兵や関ケ原の戦いの際の岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略戦などで功を挙げ5千石を有するまでとなり、後裔は細川家の家老を歴任している。

足利義秋(義昭)が若狭に入る時、ここを通り、宿の南西熊川城に一泊している。

また織田信長の越前攻めの時にもここを通り、熊川北西の膳部山城(城主松宮玄蕃允)に一泊している。

信長が敦賀から逃げ帰った「金ヶ崎の退き口」でも、熊川城主沼田氏の手を借り、朽木氏を頼り、朝倉氏の追撃を振り切りかろうじて京に逃れた。

その後、天正12年(1584)には丹羽長秀によって破却されたと考えられている。

天正17年(1589年)に小浜城主浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備した。

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