鯖街道の宿場町 熊川宿

北陸
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若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村(1716~83)が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(安永5年 1776年の句)と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて深い関係にありました。

道標と熊川番所、無電柱化で街はすっきりしている。

熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であったという。

室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の武士、沼田氏が山城を構えたところであり、今もその遺構を確認する事が出来ます。

さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図った。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。
江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。

熊川宿の歴史的景観に欠かせないのが、豊富で流れの速い水路である“前川”。

この清水は“平成の名水百選”に選定された。

平入建物(棟を街道に対して並行させた建物のことで、街道側では軒が真っすぐに見える。)と妻入建物(棟を街道に対して直角に置く建物のことで、街道側では、屋根の三角部分が見える。)が混在しながらも、連続性を持った町並みを形成しているのが特徴。

旧逸見勘兵衛家住宅。

熊川村の初代村長逸見勘兵衛、その子息で伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助翁の生家で、熊川を代表する町家のひとつ。

主屋、土蔵、庭が平成7年1月に町指定文化財となり、その後3カ年をかけて大規模な修理が行われ、町家造りを生かした機能的な現代の住まいとして一般公開されている。

熊川宿と言えば地酒「熊川宿」が絶品。

若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館。

昭和15年に、熊川出身で伊藤忠商事二代目社長の逸見竹ノ助により、近代洋風建築の熊川村役場が建てられた。
トスカナ風の柱頭をもつ円柱がポーチに建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いている。

今日のお昼は鯖寿司。

「鯖街道」もいつの頃からかこの呼び方をされているが、熊川の古い文書には由来となるはずの若狭湾の鯖とわかる記載は見当たりません。

しかし18世紀後半になって若狭湾で多種類の海産物に混じり大量の鯖が水揚げされるようになった事や小浜の『森田宗太郎家文書』によれば宝暦(1751~63)以後、若狭の海で鯖が大量に漁獲され、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったためだ、とも考えられる。

これらが運ばれた道は幾通りもありましたが、鯖の運ばれた道の総称が「鯖街道」である。

白石神社 – 祭神は、彦火々出見尊、白鬚明神、小浜藩主酒井忠勝、および山の神。旧村社。

御蔵道はかつて北川を往来した舟運の米がこの路地を通り、松木神社境内にあった蔵屋敷に至ったことからこの名がついたという。

松木神社 – 若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社で、熊川宿の中では桜と紅葉の名所。

松木庄左衛門は、苦しみにあえぐ若狭の農民を救うため、一命を投げうって大豆年貢の引き下げを実現した。

時に庄左衛門は28歳の若さでした。

松木神社は昭和8年に建てられたもので、境内には庄左衛門の遺徳を顕彰するため、昭和10年に建てられた義民館がある。

また不思議な因縁だが、松木神社境内は、かつて小浜藩の年貢米を収納する米蔵があったところ。

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熊川宿へのアクセス、行き方歩き方

福井県三方上中郡若狭町熊川
0770-62-2711 若狭町歴史文化課

米原駅→(北陸本線 30分)→敦賀駅→(小浜線 60分)→上中駅下車→JRバス若江線10分→「若狭熊川」下車

京都駅→(湖西線50分)→近江今津駅下車→JRバス若江線30分→「若狭熊川」下車