上有知というのは、しばらくこの地を代表する地名でしたが明治44年(1911)に、美濃和紙にちなんで、「上有知町」から「美濃町」と改名しました。
鑿の跡もありそうな古いタイプのトンネルを抜けます。
トンネルの上は小倉公園。
金森長近が徳川家康より美濃の地を拝領した時、小倉山城を築城しました。
小倉山は標高159mの小さな山で、現在、小倉公園として市民や観光客に親しまれています。
春には約1,000本もの桜が咲き誇り、さくらまつりで賑わう人気のスポットです。
金森長近は、長良川畔に物資輸送の玄関口として「上有知湊」を開き経済の発展を目指した。
江戸時代から明治末期まで流通、交通の中心として栄えた。
船着場までの石段、舟の安全のために奉祀された住吉神社、石灯籠などが昔の名残をとどめています。
番船40艘。美濃和紙、荏胡麻、生糸、酒ほかの輸送基地として、上流から運ばれる木材運搬の中継基地として、水運物流の要所として栄える。
美濃国四大川湊のひとつ。
灯台の側に頼山陽・村瀬藤城 別れの詩碑がある。
山陽と藤城の出会いは、『藤城遺稿』によれば、文花8年(1811)、藤城18歳のときに大坂に出て、混沌詩社に加わった。
そこには篠崎山陽、小竹親子もいて、京に出て間もない山陽が訪れ、初対面になったという。
その2年半後の文化10年10月、山陽は美濃赤坂のある江馬家を訪ねた後、長良川を舟で北上し、上有知の湊から上陸。藤城と再会した。
この時、山陽は17歳の後藤松陰を伴っていた。
二人は藤城の屋敷に逗留。また藤城の案内で斎藤招桂という人の別荘を訪れるなど、美濃滞在を楽しんだ。
詩碑には山陽が上有知を去る際の師弟心情が刻まれている。
頼山陽
解纜離舟帯酔乗 急難忽過石千層
厓頭送我人如豆 挙笠招招呼互応
村瀬藤城
津頭帳別暁風寒 柔櫓声残岸樹間
逢窓依約藤城雪 送到藍渓第一湾
頼山陽
解纜して舟離れるに酔ひを帯びて乗る。 急難忽ち過ぐ石千層。
厓頭我を送る 人、豆の如し。 笠を挙げて招招と呼び互ひに応ふ。
村瀬藤城
津頭に悵別するに暁風寒し。 柔かき櫓声残す岸樹の間。
篷窓、依約(隠微)たり藤城(藤城山)の雪。 送り到る藍渓(長良川)の第一湾。
曽代用水(そだいようすい)、岐阜県美濃市曽代の長良川左岸から取水している。
曽代地区を縦断し、小倉山と長良川の間を流れ、美濃市役所の西側を通り、国道156号に沿って南下する。
松森地区を通過し、東海北陸自動車道美濃ICの東を流れ、関市に入る。
川端地蔵、昭和二十七年に清泰寺の住職が長良川の水難事故防止のために作った。
前野渡船場跡、上有知湊の近くで商店や茶店・船頭屋敷が軒を並べ江戸期から大正期まで上有知の盛り場の一つだったとか。
(看板より)
美濃橋(みのばし)は、岐阜県美濃市の長良川にかかる人・自転車専用の吊り橋。
1915年(大正4年)8月起工、1916年(大正5年)8月完成の吊橋。
現存する最古の近代吊橋であり、2001年(平成13年)に土木学会選奨土木遺産を受賞し、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定された。
吊橋を支える主塔は鉄筋コンクリート製。床板は木製であり、鋼材でできた補剛トラスがあるのが特徴。
橋のある場所は上有知湊のやや上流にあり、牧谷街道の前野渡し(渡し舟)により行き来が行われていたが、交通量が多くなりこの橋が架橋された。 (Wikipediaより)
美濃橋上流の奇岩、木曽川の太田橋上流から犬山までの約13kmは、豊かな緑と奇岩怪石に恵まれており、 その風景がヨーロッパのライン川と似ていることから「日本ライン」と呼ばれています。
美濃橋下流を眺める、前野渡船場跡、上有知湊などが確認される。
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上有知湊へのアクセス、行き方歩き方
岐阜県美濃市湊町
長良川鉄道「梅山駅」から徒歩約15分。
岐阜バス岐阜美濃線「小倉公園前」下車、徒歩8分。
東海北陸自動車道美濃ICから、国道156号経由で約7分。