京都市内のエリアでありながら、山の中に位置するため中心街とは違って静で落ち着いた大人の旅をしたい人にはピッタリ。
いつも大きな声で話す嫌われ者の『○国』の方々にも出会うことも少ない。
頭に縫紋様の手拭を被り、薪や柴を載せ、腰には紺衣に御所染の帯、二巾半の前垂、足に白脚絆、甲掛を付けた大原女の姿は春の風物詩になっている。
初春の大原の里で大原女時代行列
室町時代から 明治大正時代まで それぞれの時代の大原女衣装を身にまとい、三千院 … 続きを読む →
この場所ではいつも雪だるまを見かけるがこのところの温かさで少しやせています。
♪京都 大原 三千院
恋に疲れた 女が一人
結城に塩瀬の 素描の帯が
池の水面に 揺れていた
京都 大原 三千院
恋に疲れた 女が一人~ ♪
お馴染みのメロディを思い出します。
それでも朝は冷たく手水鉢の加水は凍っています。
建礼門院、女官たちは、大原の地で慎ましい暮らしを送ったという。
阿波内侍は大原の里人のために柴売りを発案し、大原女のいでたちも考案したといわれている。
大原女のいでたちは阿波内侍が山に薪拾いに出掛けた時の姿がもとになっているという。
頭に縫紋様の手拭を被り、薪や柴を載せ、腰には紺衣に御所染の帯、二巾半の前垂、足に白脚絆、甲掛を付けた。
見渡す限り大原の里、滋賀県と県境を接する比良山系の山並み。
正面の山が平家物語に登場する翠黛山(すいたいさん)
1186(文治2)年の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れたが、突然の法皇の行幸だったので建礼門院は向かいの翠黛山に花摘みに行って留守であった。
その間法皇が見た寂光院と草庵の様子は哀れをもよおす状況であった。
声をかけると出てきた老尼の阿波内侍に案内を請うて御庵室の中を見た法皇は、一丈四方の仏間と寝所だけという昔の栄華に比べて余りの簡素な生活にただただ落涙するばかりであった。
しばらくして花摘みから帰ってきた建礼門院は、はじめ逢うことを拒んだが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面する。
先帝や御子や平家一門を弔いながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道(注:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)になぞらえて己が半生を語る建礼門院に、法皇はじめ供のものも涙するばかりであった。
1191(建久2)年2月中旬のころ、建礼門院はこの地で往生の時を迎え、内侍たちに看取られてその生涯をそっと閉じた。
しかし、後白河法皇の大原御幸は無かったというのが定説だ。
律川にかかる赤い小橋は、不思議な橋です。
↑
南から北の勝林院に向かう時は 「 未明橋 」 と書かれているのに、戻りの北から南に向かうと 「 茅穂橋 」 となっています。
理由は不明のまま。
下から上がっていくと、三千院の手前が「呂川」、三千院を右に見ながら、さらに進み右に「大原陵」「大原法華堂」を通り過ぎたところに「律川」があります。
舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などといいます。
仏教では、お経に節をつけて唱えることがよくあります。
これを声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。
現代風には仏教音楽でしょうか。
この声明には、呂(りょ)旋法、律(りつ)旋法、中曲の三種類の音階があります。
そこから、呂律は声明の調子、音の調子、旋律という意味になりました。
声明は日本の音楽に大きな影響を与えています。
平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、今様、ご詠歌、各地の音頭、盆踊りなど、日本人の音楽の底辺には声明があるといわれ、カラオケでよく歌われる演歌も、その影響を受けているほどです。
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大原へのアクセス、行き方歩き方
大阪駅より約25分、京都駅中央改札出口下車
京都バスC3乗り場、17系統大原行にて約1時間
京阪神からは大原・八瀬1dayチケット – 京阪電気鉄道が便利、拝観料が一割引きになる他、各種特典があります