九州の要 築後国一の宮 高良大社

高良山(こうらさん)は福岡県久留米市の山。
高牟礼山(たかむれやま)、不濡山(ぬれせぬやま)、青山山、梶山(かじやま)、琴弾山(ことひきやま)などとも呼ばれる。

古来から宗教的な山として崇められ高良大社が築かれ、また軍事的な要衝でもあったため神籠石式山城や住厭城(すみあきじょう)などの遺跡が見られる。

今回の旅、天気予報は芳しいものではありません、時折小雨の降る寒い空です。

山頂に高良山奥院、中腹に高良大社があり、南北の谷を囲むように高良山神籠石が残る。

山中および山麓には祇園山古墳、礫山古墳、高隆寺跡、御井寺跡、座主の墓地、伊勢天照御祖神社、高牟礼権現、宮地嶽神社、桃青霊神社、愛宕社、琴平神社、厳島神社などが点在する。

一説には、白村江の戦いより約百三四十年遡った527年、九州に巻き起こった磐井の反乱の際の築城であるともいう。
磐井の乱は、時の朝鮮出兵をめぐって筑紫の国造である磐井が大和の支持に従わなかったという事件で、これを討伐するに1年以上かかっている。

九州の過半を巻き込んだ内乱であり大和王権の重大な危機であった。

ちなみに筑紫君磐井の墓と考えられている岩戸山古墳は高良山の南にある。

現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。

高良大社から眺める筑後川流域。

かつてはここに卑弥呼の国、邪馬台国があったはずだ。

邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣使して、金印を受けた、そして、神功皇后が卑弥呼を滅ぼす。

豊とは、神功皇后のことであり、武内宿禰の妻だった訳だが、 古事記の記述によれば武内宿禰は蘇我氏の先祖でもある。

神功皇后は、新羅が好きだったが、それは武内宿禰が新羅の出身者だったからだ。

古代の大和朝廷(天皇家)は、新羅系の蘇我氏の支援を得て誕生した訳だが、 大化の改新で百済系の中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足によって、政権を奪われてしまった。

天武天皇(大海人皇子)になって、この新羅系の勢力(蘇我氏)は復活したが、 天武天皇の妻であった持統天皇(天智天皇の娘)により、 再び百済系(藤原氏)に戻ってしまい現在に至っている。

これは八葉石碑残欠といい高良山における神籠石の由来が書かれている石碑の一部。
薄くなって読みづらいが、神籠石発掘の記念碑として江戸時代初期に作られたもの。

傍には説明の看板がある。

神籠石が学会に発表されたのは、1898年(明治31年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。

1900年(明治33年)に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張したのに対し、喜田貞吉が神社を取り囲む聖域であると反論したことで、神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。

1963年(昭和38年)の佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。

鎌倉時代初期に起源をもつと伝わる「子(ね)の日の松神事」は、毎年正月初子の日(月の最初の子の日)に行われていた。

この神事は、かつて高良の神様が高良山にご鎮座される際に近くの上津地区に住まわれ、松を山内へお植えになられてからお移りになり、お鎮まりになられたとの故事に由来する。

一部の神籠石遺跡から城郭の基礎となる土塁が発掘され、築造が白村江の戦いの後にあたるため、国土防衛の必然があったことが考えられる。

登山道は御手洗池から社殿に通じる表参道、宗崎より稲荷社を経て途中でこれに合流するもの、山川町追分を起点とする裏参道、そして御手洗池から北谷に沿うものがある。

また、1933年に自動車登山道が開かれ、1969年には耳納スカイラインが全面開通した。

山頂には現在琴平神社が祀られているが南東端と北西端に土塁が残っている。
主郭の東下は大堀切で断ち切っている。

主郭の西下にあるのが二の丸、その先端の高台が三の丸と伝えられる。

築城年代は定かではないが天文2年(1533年)八尋式部によって築かれたと云われる。

これは「築後将士軍談」によるもので、「北肥戦誌」には永禄12年(1569年)大友宗麟が築いたとしている。

吉見岳城に通じる道、ここから600m下ったところにある。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で秀吉が吉見岳城に本陣を構えている。

吉見岳城は高良山から北西の尾根続きにある標高160m程の吉見岳山頂に築かれている。

バスで下山途中、二の鳥居上部で神籠石を見る。

バスの車窓より二の鳥居。

バスの車窓より一の鳥居。

高良大社の御祭神は、八幡大神(はちまんおおかみ)高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)住吉大神(すみよしおおかみ)
八幡大神は応神天皇、高良玉垂命は神功皇后、住吉大神は竹内宿祢と考える。

日本書紀によれば、神功皇后は夫の第十四代仲哀天皇とともに九州に赴いたという。

それは、南部九州の熊襲が反旗を翻したからだというのだが、途中神託が下りて、熊襲を討つのではなく、新羅を討てと命じられる。
天皇はこの神託を無視し、熊襲を討ってしまったために、変死する。

日本書紀は、これは天皇が神の言葉を聞かなかったからだという。

奇怪極まりないのは、仲哀天皇が亡くなった晩、神功皇后と住吉大神は、夫婦の秘め事を行っていたという。

神と神功皇后が、なぜここで男女の仲にならなければならなかったのか。
さらに問題なのは、住吉大神が、武内宿禰と接点を持っていることだ。

武内宿禰といえば、神功皇后の忠臣でつねにそば近くに侍っていたし、古事記に従えば、仲哀天皇が亡くなられた晩、登場人物は天皇と皇后、そして武内宿禰だけだから、意味深長だ。

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高良大社へのアクセス、行き方歩き方

福岡県久留米市御井町一番地
TEL0942-43-4893

JR九州久大本線 久留米大学前駅 (徒歩約35分)

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