環濠集落安満遺跡 弥生時代の貴重な資料

近畿最古級とされる弥生時代前期(約2500年前)の水田跡が見つかった高槻市八丁畷(なわて)町の安満(あま)遺跡で、現地説明会が始まり、約1500人の考古学ファンが詰めかけた。

安満遺跡の推定復元図。

遺跡は、1928年に京都大学農学部付属農場建設工事の際に発見された。

さらに1966年頃から、住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、集落跡が広範囲に広がっていることから、比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判った。

1928年の調査で多量の弥生時代の石器や土器が出土し、これらの出土品から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。

また、この地が弥生文化を知る上で重要な遺跡であることから、農場北側、東西600m、南北100mの範囲が国の史跡に指定されている。

全体では東西1500m,南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている遺跡である。

同遺跡は昭和3年、京都帝大農学部摂津農場の開設時に偶然、発見。
昨年9月から行った発掘調査では水田跡が出土した。

三島地方で初めて米作を始めた土地であり、弥生時代前期から中期まで続いた集落があったとされている。

居住群のまわりに壕でめぐらせる環濠集落跡で、集落の南側に用水路を備えた水田が広がり、東側と西側は墓地になり、方形周溝墓が100基以上確認されている。

今回は遺跡公園の造成に伴い昨年9月から調査。
約9千平方メートルの水田を確認した。

あぜ(幅0・2~2メートル、高さ5~20センチ)は10~65平方メートルずつの長方形57枚に区画され、弥生時代によくみられる「小区画水田」の特徴をもつという。

今回の発見は、幸運だった。
水田は洪水でパックされ、広大な安満遺跡も京大農場として開発から守られてきたからだ。

農場は京都府木津川市への移転が決まり、高槻市が防災機能を備えた遺跡公園として整備する。
「近畿最古の農村風景」が再現される日を楽しみにしたい。

画像奥の地層を見ると水田の上に砂礫が堆積しているのがわかる。

クローズアップして見る、水田が砂礫でパックされた状態がよく確認できる。

土砂が最大約40センチの厚さで積もっており、弥生前期の末ごろに洪水被害を受けたらしい。

洪水の直後に水田の様子を見に来たとみられる人の足跡(長さ22~27センチ)約20個もあった。

現地説明会用に展示されていたもの。

洪水による堆積(たいせき)砂層からは、同時期の土器棺墓や、弥生中期以降の方形周溝墓や木棺墓が計16基見つかった。

洪水による土砂で、水田に適さない土地になったため、墓地を造ったとみられる。

畦畔は、田と田の境に位置する、土を盛って泥を塗り上げたあぜ。

「畦」→あぜ
「畔」→土を盛り上げたところ、ほとり、湖畔は湖のほとり、溝畔は水路のほとり。

土坑(どこう)とは、発掘調査などの際に確認される遺構のうち、人間が土を掘りくぼめてできたと考えられる穴で性格が見極めにくいものを指す。

つまり遺構として検出されたとき、竪穴住居跡ないしその他の性格が明確な遺構と考えられるもの以外のものを「土坑」と呼び、調査の結果、性格の見きわめにくい遺構と判断された場合も「土坑」として取り扱われる。

甕。

壺は試掘抗1の溝1から発掘された破片を復元したした壺で弥生時代前期のものであるという。

写真でもわかるように殆ど完全に復元されている。

斧、鍬などの農工具も見つかっている。

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