対馬西岸と東岸を結ぶ運河 万関瀬戸(まんぜきせと)

1900年に旧大日本帝国海軍によって、浅茅湾内の竹敷港にあった竹敷要港部から対馬東海上までの所要時間を短縮するための航路として開削された。

当時は幅約25メートル、深さ約3メートルであった。

対馬島の上島と下島の境であり、ここより北部を上島、南部を下島と言う。
運河上には国道382号の万関橋(まんぜきばし)という橋が架けられている。

現在の橋は1996年に架けられた3代目。

万関橋の上から浅茅湾(あそうわん)方向を望む。

万関瀬戸(まんぜきせと)は、対馬(長崎県対馬市)の中央よりやや南の東部にある延長約500mの運河。
対馬西部の浅茅湾(あそうわん)と東部の三浦湾(みうらわん)を接続する。

上の画像と反対側、三浦湾方向、久須保浦(くすぼうら)。

日本海海戦時に水雷艇隊は久須保水道(万関瀬戸)を通って出撃はしていない。
明治37年9月から掘割拡幅のため同水道は締め切られていた。

鎮海湾から第一戦隊(三笠)に随伴して出撃した水雷艇隊は波が高かったため、三浦湾に一時避難しただけである。
また尾崎湾に停泊中の第三艦隊付艇隊(第41号 水野広徳大尉等)は大口湾口を経て出撃した。

よく日本海海戦時にここを通って水雷艇隊が出撃したと説明されるが間違いだ。

橋の上からは多くのクラゲが確認された。

ちょうど船が通過していく。

対馬西岸と東岸を結ぶ運河はもう1本大船越瀬戸がここより約2km南にあるが、万関瀬戸に比べて狭く、浅い。また、万関瀬戸が航路であるのに対し、大船越瀬戸は漁港となっている。このため、多くの船舶は万関瀬戸の方を通航する。

対馬には石で葺いた屋根があるが、それを取り入れて造られた東屋が橋のたもとにある。

食料の自給自足が困難だった対馬の特性上、食料の保存は生存の問題と直結されている重要なことだった。

して食糧を備蓄しておく場所が必要だったが、それを「ゴヤ」とする。

ゴヤを作った後、屋根をどうするか深刻に悩む。
自然災害や火災から食料を守ることができる、重い石をのせて屋根にしたのだ。

他の説は、石が富の象徴で石を使ったという話と、江戸時代には庶民が屋根に瓦を載せなくて石の代わりにしたという話が伝えられている。

とにかく重い石の屋根を木造家屋が堪えているって不思議だ。

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