「暘谷城」と呼ばれた日出城

九州
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1602年(慶長7年)に日出藩の初代藩主木下延俊が義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。

別名「暘谷城」と呼ばれ、3代木下俊長が 中国の古書、『淮南子』から引用して名づけたと伝えられる。

近代要塞みたいな雰囲気の内堀を進む。

日出城の中でも特異な外観を持っていたのが、本丸の北東側に位置していたこの櫓。

1階平面は、7.95メートル四方からなり正方形ですが、平面・外観ともに北東隅を欠いているのが大きな特徴。
日出城に建っていた頃は下の石垣まで隅を欠いていたといわれています。

明治期の取り壊しを免れ、仁王の中村家屋敷内に移築されていましたが、平成21年に中村家より譲り受け、解体・調査を実施し保存。
平成22年より2年をかけ復元工事を行い、平成25年3月18日完成。

本丸北東角にあった鬼門櫓から大手門への土塁までの空堀。

この石垣の角のところに小さな祠がありました。
日出城築城の際に人柱になった老武士を祀る祠でした。

城は、別府湾に突出した南端の台地に本丸、その東・西・北三方をコの字に囲むように二の丸、その東に三ノ丸を配置した梯郭式平山城で、本丸には三重天守と5基の二重櫓、平櫓1基、大手門から多聞櫓(長屋)を隔てた南部に御殿が建てられていた。

日出城天守台石垣天守台下の帯曲輪。

望海楼台から直結している虎口。
現在はここを登ると小学校の校庭です。

天守台からの眺めは、別府湾を挟んで正面にお猿の高崎山、右手に別府温泉の湯煙、左手に遠く大分府内城下。
この景色を眺めながら、城下カレイに舌鼓を打ち、豊後の地酒に酔う・・・見果てぬ夢か?

日出城大手虎口跡に建つ「暘谷城趾」の碑。

大手門跡に当る日出小学校校門には土橋が現存し、両サイドに蒲鉾塀が現存する。
この城の他には、同県内の岡城にしかない非常に珍しい遺構。

以前訪問した岡城の記事がこちらにあります、よろしければご覧ください。
また、土井晩翠が仙台城をモデルに詞を書き、瀧簾太郎が岡城に構想を得て曲を作ったといわれる。
断崖絶壁の高石垣 岡城

名曲「荒城の月」の作曲者・瀧廉太郎は、明治12年(1879)8月24日、東京市芝区佐久間町(現在の東京都港区)に生まれた。

彼の父をはじめ、その祖先は日出町に生まれている。
日出町佐尾の洞雲山龍泉寺には、廉太郎をはじめ瀧家の墓31基が眠っている。

瀧家の初代・瀧五郎左衛門俊吉は紀州の藩士であったが、江戸勤番の時、乱暴者を取り押さえた手柄が認められ、日出藩初代藩主木下延俊に抱えられた。

その後 累進して武頭となり、恒川・山田・浅野と共に日出藩の四天王といわれた。
以来、瀧家は11代260余年にわたり、日出藩木下家に仕え、日出藩の家老職など の要職に就くほどの名門の家系であった。

廉太郎の祖父・平之進は帆足萬里の高弟で、天保3年(1832)、35歳にして萬里と共に家老を務め、萬里は4年にして職を退いたが、平之進は嘉永元年(1848)まで17年間も勤続し、藩政の改革に当たった。

父の吉弘は、祖父の平之進が家老時代に二の丸で生まれたが、藩末には三の丸の二十番屋敷(現在の日出幼稚園)に居住していた。

慶応元年(1865)に 11代を襲名し武頭となり、15代藩主木下俊程に命ぜられて洋式操練を習った。

慶応3年(1867)の大政奉還、翌々年(1869)の版籍奉還により、藩主は日出藩知事となり、吉弘は権大参事、後に大参事に昇任し政務に携わった。

廉太郎が高等小学校の時、吉弘に、音楽の道に進みたいことを打ち明けると、吉弘の反対を受けた。

しかし、廉太郎の意思が固く、吉弘が困り果てていたところ、廉太郎と懇意だった甥の大吉に相談した際、大吉に「人は各々天分を生かすべきだ」と強く忠言を受け、廉太郎の東京音楽学校(現・東京芸術大学)への進学が許された。

この大吉の勧奨がなければ「楽聖・瀧廉太郎」は誕生していなかったかもしれない。

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日出城へのアクセス、行き方歩き方

大分県速見郡日出町2610-1

JR暘谷駅より徒歩5分