野宮神社 斎宮行列

2011年10月の記事ですが誤って消去してしまったものを今回再掲載したものです。
記事の内容は当時のままです違いがあればご容赦願います。

なお、 野宮神社斎宮行列2020は2020年(令和2年)10月18日(日曜日)12:00から行われます。(要確認)
なお10:30から神事、14:00頃からは嵐山北乗船場で御禊の儀が行われます。(小雨決行)

「斎宮(斎王)」とは、天皇が新たに即位 するごとに、天照大神の御杖代(みつえしろ)と して伊勢神宮に遣わされた斎王(未婚の内親王もしくは女王)のこと。

この歴史は飛鳥時代の天武天皇の頃にはすでに確立されており、南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで およそ660年間、64人の姫君が遣わされていたと言い伝えられています。

10時30分斎王が人力車で野宮神社に到着。

紅いこっぽりが可愛い。

境内では式典が行われています。

いよいよ行列の出発です。

斎宮行列ののぼりを先頭に行列が進みます。

監送使(かんそうし)です。斎王群行の責任者です。

竹林の中を進む斎王代の輿。

命婦を従えすすむ斎王代の輿。

祭典の行われる大堰川北岸に到着。

騎乗官人・火炬小女(ひたきのしょうじょ)・戸座(へざ)・女官・文官の代表者を従え台座へ向かう。

斎宮は五月の葵祭と同じ遣り方で御禊を行います。

続いて、斎宮以下は伊勢神宮のある方向を向いて遥拝を行います。

今年で13回目の「斎宮行列」

平成17年より「斎宮夢行列」から「斎宮行列」に名称変更しています。

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大河内山荘


時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園。

入場者には抹茶と茶菓子のサービスがある。
茶菓子は「大河内山荘」と刻印されたモナカで、これは土産として販売もされている。

本来入場料1000円の処時節柄500円。

入口より庭園を見上げる。

中門(登録有形文化財)

庭園

東の嵐山、遠くは比叡山、西の保津峡を借景にした回遊式であり庭師広瀬利兵衛とともに造営を行った。

大乗閣(登録有形文化財)

寝殿造、書院造、数寄屋造など日本の住宅の伝統的様式を合わせ取り入れた建物で傳次郎の構想に基づき数寄屋師の笛吹嘉一郎が施工した。

昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、当時長期保存が難しかったフィルムに対し永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。

映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたものである。

場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。

資料館をのぞく、代表作の「丹下左膳」、「姓は丹下、名は左膳」の名ゼリフで一世を風靡した伝説の時代劇ヒーロー・丹下左膳。

右目には大きな刀傷、おまけに右腕がない隻眼隻腕。

ドクロの紋を染め抜いた黒襟白地の着物、下には女物の派手な長襦袢。

素浪人忠弥

槍一筋の風喜児・丸橋忠弥が、浪人弾圧の圧政の中で正義と幸福を求めながらも、遂に由比正雪の一味に加担して、幕府反逆の狼火を上げる無血悲壮篇。

傳次郎の別荘であった当時は、高峰秀子・片岡千恵蔵・山田五十鈴・京マチ子といった傳次郎の共演者たちが山荘に招かれている。

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新緑の法輪寺


名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として親しまれ、奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。

今日も裏参道から参ります。

新緑のまばゆい時期です。

この時期、京都をはじめとする関西の子は13歳になると晴れ着を着てここに知恵を授かりに来るのですが今年はコロナ過で大変なようです。。

お参りを終えた子供たちは、渡月橋を渡って京都市内へと戻るのですが、渡月橋を渡り終えるまでけっして後ろを振り返ってはいけない、という言い伝えがあるのです。

古くは『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。

境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。

寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かづのいでら)として建立したとされる。

その後、天長6年(829年)、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を安置し、貞観10年(868年)、寺号を法輪寺と称したという。

室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、元治元年(1864年)の禁門の変により、再度罹災している。

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落柿舎


落柿舎(らくししゃ)は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。

松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。

芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。

去来がこの草庵について書いた『落柿舎ノ記』がある。

庵の庭には40本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた。

ある時(1689年(元禄2年)頃)、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った。

しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。

翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した。

この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら「落柿舎の去来」と称したという。

去来は、貞享2-3年(1685年 – 1686年)ころに、嵯峨野にあったこの庵を入手した(なお、去来の当時の庵の正確な場所は不明である)。
もともと豪商が建築したものである。

芭蕉は、1689年(元禄2年)以来3度にわたってこの庵を訪れた。

とくに1691年(元禄4年)には4月18日から5月4日までと長く滞在し、『嵯峨日記』を著した。

このほか、野沢凡兆とその妻・羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。

現在の庵は、1770年(明和7年)に俳人・井上重厚(嵯峨出身で、去来の親族でもある)により再建されたものである。

この場所は弘源寺の跡であった。
また明治初年にも再興されている。

現在の庵の裏手には去来の墓がある。

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化野念仏寺


化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。

山号は華西山。
化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。

化野は古来より鳥辺野、蓮台野ともに葬地として知られ和歌では 「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われています。

寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に小倉山寄りを金剛界、曼茶羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め中間を流れる川〔曼荼羅川〕の河原に五智如来を立て、一宇を建立し五智如来寺と称したのが始まりといわれています。

当初は真言宗でしたが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになりました。

1712年(正徳2)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれています。

本堂には本尊の阿弥陀如来像を安置し、境内には賽の河原を現出した多数の石塔、石仏が立ち並んでいます。

竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。

風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。

死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています。

寛永9年(1632年)、死去。享年62。
本墓は遺言により一族の墓所がある二尊院でなく、化野念仏寺に置かれた(二尊院にも墓所はある)。

本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。

境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。

境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。

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愛宕念仏寺


愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は京都府京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の仏教寺院。

本尊は厄除千手観音、別名千二百羅漢の寺。
愛宕山参道の山麓の入り口に位置する嵯峨野めぐりの始発点として知られる。

8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。

すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。
廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。

千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。

この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。

1922年それらを移築して現在地での復興を目指すが失敗。
あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。

それを清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。

わしも手伝ってやるから」の激励で復興に取りかかった。

以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。

素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年。当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達した。

五百羅漢の石像を奉納する希望者が、自身で1人1体ずつ彫りました。

寺に通いながら作業して、1人が7日から10日ほどかかっていましたね。

石は栃木県の大谷石というキメ細かく細工しやすい石を直方体に切り出して送ってもらいましたが、1200体の完成とともに原石がなくなり今ではもう産出してないそうです。

阿羅漢というのは、釈迦の弟子のこと。仏の教えを伝えた聖人です。“羅漢さん”と呼ばれることも。

日本では、戦災などで多くの人命が失われた時に、その霊を慰めるために五百羅漢が作られました。

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奥嵯峨野散策


嵯峨野の奥に行けば行くほど暗く寂しい感じになります。

なのでもし午後からの散策であればこの逆をたどって、鳥居本までバスで行ってしまい、嵐山駅のほうに戻ってくるコースのほうがよいかもしれません。

平野屋さんは、江戸時代は鮎問屋として営み、14代続く老舗です。
400年の歴史を感じさせる茅葺屋根は鮮やかな緑の苔に覆われています。

愛宕神社「一の鳥居」

昔の愛宕詣のための茶店、鮎料理つたや。

愛宕神社「一の鳥居」前の平野屋からゆるやかな坂道をくだります。

電線や電柱等の人工物が目に入らず、平安期さながらの風雅な景色が楽しめます。

奥嵯峨野は、嵐山のように一か所に集中しているのではなく、広範囲に大小様々なスポットが点在する地区です。

二尊院付近、桜が咲き始めています。

小倉池脇の静かな小径。

「アイトワ人形ギャラリー」。

コースから見える位置に可愛い人形(制作 森小夜子さん)が飾られることもありますので見つけてみて下さい。

カフェを併設していますので人形を眺めながら休憩するのもよし。

嵐山の風情にとけこむように佇むのがトロッコ嵐山駅です。

改札から咲き始めた桜を望む。

竹林の道は相変わらず人が多い。

「雨中嵐山」詩碑

保津川に面した公園の南の入り口に中華人民共和国の国務院総理を務めた周恩来が、京都留学中に嵐山で作ったと言われる「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑がある。

中国の要人が関西を訪問した際にこの碑を訪れることが多く、中国人観光客の訪問も多い。

雨の中、二度、嵐山に遊ぶ。 両岸の青い松が幾本かの桜を挟んでいる。
その尽きるところに、ひとつの山がそびえている。

流れる水は、こんなにも緑であり、石をめぐって人影を映している。
雨脚は強く、霧は濃く立ちこめていたが、 雲間から一筋の光が射し、眺めは一段と美しい。

人間社会のすべての真理は、求めれば求めるほどあいまいである。
だが、そのあいまいさの中に、 一点の光明を見つけた時には、さらに美しく思われる。

山の斜面に咲き始めた桜が美しい。

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大河内山荘


大河内山荘は区嵯峨にある日本庭園。
時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園。

昭和9年(1931年)、傳次郎34歳のとき、当時長期保存が難しかったフィルムに対し永く消えることのない美を追究するため自身で設計しこの庭の造営を始めた。

映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げたもの。

場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面、嵐山公園(亀山公園)に挟まれた約2万平方メートルの荒地であったところに位置している。

傳次郎の別荘であった当時は、高峰秀子・片岡千恵蔵・山田五十鈴・京マチ子といった傳次郎の共演者たちが山荘に招かれている

画像は大乗閣前庭。

入場者には抹茶と茶菓子のサービスがある。

茶菓子は「大河内山荘」と刻印されたモナカで、これは土産として販売もされている。

大乗閣(登録有形文化財)寝殿造、書院造、数寄屋造など日本の住宅の伝統的様式を合わせ取り入れた建物で傳次郎の構想に基づき数寄屋師の笛吹嘉一郎が施工した。

散策路からは比叡山を望める。

持仏堂(登録有形文化財) 信仰の篤い傳次郎が座禅を行った所で山荘の初期の建物。

滴水庵と前庭

ミツバツツジか咲き誇る。

南西方向、桂川の上部に咲き始めた桜を望む。

目を少し右に転ずると千光寺の大悲閣が山の中腹に小さく展望できる。

大悲閣千光寺:江戸時代、角倉了以が大堰川の開削工事で亡くなった人たちを弔うためによって建立した。

月下亭

ここからは真正面の比叡山の下に市内が一望できる。

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嵐山羅漢


天龍寺の近くで見かけたかわいい地蔵さん。

京都・嵯峨野の宝厳院の前に嵐山羅漢という珍名所があります。

宝厳院の呼び掛けで、日本各地の個人や企業がそれぞれ思いを石仏に託しを奉納したもので、変わった風景が広がっています。

不気味ではありますが神秘的です。

500人の羅漢およびその群像。
十六羅漢という呼称もある。

十六羅漢は、仏法を護持することを誓った16人の仏弟子で、五百羅漢は、仏の滅後に行われた第1回目の経典編纂(結集(けつじゆう))に集まった仏弟子を指すといわれる。

いずれも、それぞれの能力を生かして正法を後世に伝える役割を担っている。

深山にこもってひたすらに修行に励むその姿は、肉は落ち粗末な衣服を身にまとってはいるけれども、超人的なさまざまの能力を得て、仙境に遊ぶような風貌である。

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春の一日 建仁寺


京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
山号を東山(とうざん)と号する。

寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。

重要文化財も選ばれている方丈、その前庭にあたるのが「大雄苑(だいおうえん)」。

七代目小川治兵衛によって作庭された庭の中では珍しい枯山水庭園。

巨石や砂、水を使って作られる枯山水庭園は、余分なものを省いた洗練された美しさを感じられます。

法堂

明和2年(1765年)の建立。
また、2002年(平成14年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。


降り注ぐ春の日を浴びてのんびりと過ごす。

今、アセビが盛りです。

雨のやみまを狙って庭を散策。

建仁寺本坊には、陶製の十六羅漢像が奉納されています。

明治末期から大正初期にかけて清水、五条地域の陶芸家16人による作品です。

夫々の羅漢さんは、表情や姿も違いますが、夫々の陶芸家が得意とする焼き方や陶質、磁質、釉薬を使って製作していますので、夫々の陶芸の特徴もみることができて圧巻。

都路華香 筆 『喝』

説明板には次のように書かれています。

「喝」は物事の意味をしめさないが、四つの働きがある。

一、煩悩、妄想の迷いを断ち切る喝

一、目覚めよ。と、ふるいたたす喝

一、かかってこい。と、本気にさせる喝

一、平常心是れ喝。と、大きな喝。

方丈にあるもう一つの庭園が「潮音庭(ちょうおんてい)」。

四角い形の庭を囲むように廊下が配置され、吹き抜けのようになっている庭園を様々な角度から鑑賞できます。

南側の小書院から眺めます。(ほぼ南からです)

向こう側に大書院の風神雷神図が見えています。


差し込む光が柔らかく心和ませる。

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