古墳の町 上中まで歩く

北陸


昨夜のトラフグの宴会が尾を引いています。

全員昼食はいらない!!と 時間が余ってしまい結局バス停二つ分歩くはめに。

前方の山は冠雪しています、越前方面の山か。

天気も良くいい景色を眺めながら・・・

柿の実ひとつ。

こちらは吊るし柿、田舎の風情だ。

ピラカンサもきれい。

上中駅は相対式ホーム2面2線で交換設備を有する地上駅。
敦賀地域鉄道部が管理し、自治体が窓口業務を受託する簡易委託駅でありながら、みどりの窓口(営業時間7:00 – 18:00)も設置されている(e5489サービスによるきっぷの受け取りは不可)。

窓口は上りホーム側に面した南口側に設けられている。
駅舎は2005年(平成17年)3月3日に改築された。

福井県内の駅では最初にエレベーターが設置された駅(その約1ヵ月半後、福井駅には高架化工事完成と同時にエレベーターのほか、福井県内の駅では初のエスカレーターも設置された)。

JRバスはここから山中に分け入り、熊川宿を経て近江今津に至る。

ここ上中は古墳の町。

若狭(上中地域)の古墳と継体大王の擁立

5世紀後半の西塚古墳(福井県若狭町)からは金製の耳飾や金銅製の馬具が出土しているが、特に大加耶地域を中心に、ヤマト政権を介した外交によりもたらされた遺物と考えられている。
 
それが、5世紀末から6世紀前葉にかけての「十善の森古墳」(福井県若狭町)築造の時期には、金銅製の冠帽やガラス玉など百済産と考えられる遺物が出土するようになる。

この時期がまさに継体大王擁立の時期、つまりヤマト政権の不調和の時期に相当し、遺物の内容からも若狭の豪族が独自に朝鮮半島との交流をもった可能性が高いと考えられる。
 
さらに、継体朝から欽明朝にかけては再びヤマト政権の中央集権体制が強化される時期である。

若狭においては、6世紀中葉から首長墓が前方後円墳から円墳にいち早く変化している。

ここからの出土品は、画文帯神獣鏡や馬具など、全国的に見られるものとなっており、ヤマト政権の介入を古墳の形態と出土遺物からも読み取ることができる。
 
今城塚古墳(大阪府高槻市)に近い梶原1号墳からは、剣菱形の馬具が発見されており、十善の森古墳や丸山塚古墳(ともに福井県若狭町)からも類似したものが発見されている。

また、6世紀前半から中頃に築造された、下船塚古墳(福井県若狭町)などの埴輪は、尾張地方の古墳と類似しており、継体朝との関連が推測されている。

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