真の継体天皇陵である可能性が高い 今城塚古墳を訪ねる
出土した埴輪窯、繰り返し使われており赤く変色した焼土が確認できる。
削り取られた古墳の壁面の展示。
壁面の拡大図、埴輪の破片などもみられる。
古墳の履歴の説明。
古墳築造の様子をジオラマで展示。
展示品の壺、何に使ったのか面白い形。
今城塚古墳1/100の模型。
衝角付冑、復元品。
古墳の内堤には、その大王のハニワ祭(埴輪祭祀場)が再現され、その一部は実際に触れることができます。
古墳の内堤には、その大王のハニワ祭(埴輪祭祀場)が再現され、その一部は実際に触れることができます。
緑の芝生、古墳の森を背景に見る約190点の形象埴輪が並ぶ姿はなかなか壮観です。
2001年には、古墳北側に幅65mにも及ぶステージ状の埴輪祭祀場が発見され、円筒ハニワや形象ハニワなど、60体以上が発掘されます。
そんな祭祀場が、復元ハニワで再現されています。
ずらりと並ぶのは馬型、冠帽男子型、巫女型など様々なバリエーションのハニワ。
その数はなんと約200体!これだけのハニワを前にするとテンション上がります!
高さ170cmの国内最大の家型ハニワも。
千木や鰹木など、神宮のようなつくりをしており、神社ではないかとも考えられているそう。
なお、7カ年に渡る復元整備事業が2011年3月で完了し2011年4月1日、日本初となるであろう埴輪祭祀場を内堤部分の発掘調査位置に家・人物・動物など約190点の形象埴輪をレプリカにて復元し、また復元埴輪等を展示する今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳を一体的に公開し、世界に向けて歴史遺産として発信している。
高槻市観光協会は、自由に歩きまわることができる日本唯一の大王陵であるとアピールしている。
高槻市観光協会は、自由に歩きまわることができる日本唯一の大王陵であるとアピールしている。
墳丘の荒廃が著しいことは、一時は織田信長が三好家を攻めた1568年(永禄11年)の摂津侵攻に際し築いた城砦として使われたためと理解されていたが、発掘調査の結果、1596年(慶長元年)の伏見大地震によって墳丘が地すべり性の崩壊を起こしたものと判明している。
この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。
ハニワたちをじっくり見ていると、巫女や武人といったフォーマルな雰囲気のハニワに混じって、かなりユニークなものも。
楽し気なパレードに見えますが、実のところは大王の葬式の儀礼をハニワで再現したと考えられています。
古墳の外周部でそれぞれグランドシートなどを敷きピクニック気分です。
サニー サイド 高槻岡本店に寄り反省と来年度の計画など打ち合わせ。
職場の方に教えてもらったカレーパンうまうまのお店。
というような口コミもあり、パの種類の多い店で客でごった返していました。
継体大王の生涯
生誕
男大迹王(継体天皇)は近江の国高島郡の三尾(滋賀県高島市)で生まれました。
父の彦主人王が早くに亡くなったため、母・振媛の故郷である越国高向(福井県坂井市)で育てられました。
大王に擁立
後継者のいない武烈大王の死によって、応答の断裂という事態に直面したヤマト王権は、大友金村大連らが中心となって、応神大王の五世孫を称する男大迹王を擁立します。
男大迹王は仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、507年に大王となります。
男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女・雄略天皇外孫)を皇后とした。
継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている。
その後19年間は大倭入りせず、511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。
磐井との戦い 527~528年
朝鮮半島で伽耶をめぐって百済や新羅が争うなか、継体は527年に朝鮮半島に出兵します。
海路を進む軍隊が九州北部にさしかかった時、筑紫君磐井が新羅と組んで進軍を妨害し、朝鮮半島への海路を断ってしまいます。
これに対して、ヤマト王権は大将軍物部麁鹿火らを派遣して磐井を打ち取り、子の葛子には土地を献上させ、王権に直属する屯倉としました。
こうして、有力な地方豪族を力で圧倒したヤマト王権はし、国内の支配体制を強化していきます。
「三嶋之藍陵」に葬られる 531年
531年、継体は病のため、磐余玉穂宮で亡くなりました。
その没年を日本書紀は82歳、古事記は43歳としています。
ただ、どちらの史料も大王が藍野陵に葬られたと記していて、のちの摂津三島の藍野の地に陵墓を築いたことは間違いありません。
継体が勢力基盤とした琵琶湖・淀川流域のなかでも、特に淀川北岸の三島を選んだのは、死後も安らかにまもられる場所としてこの地を重視していたからに他なりません。
この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。
継体天皇の謎を追う旅
万代池から住之江公園へ
万代池から住之江公園へ桜便り
継体(男大迹王)は当初、自分はその任にないと言って何度も即位を辞退したが、ヤマト王権の中でももっとも力をもつ大伴氏の大伴金村らのたび重なる説得を受け、樟葉(大阪府)へ向かい、507年に即位した。このときすでに58歳だったというから、よほどの実力者であり、彼でなくては畿内および反乱勢力の平定が成しえなかったと、ヤマト王権の関係者に判断されたとみることができる。
帝塚山古墳は「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり5-6世紀の豪族、大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)とその子の墓とされている。
大伴金村とは、第二十五代武烈天皇時代の大連(むらじ)で、武烈天皇に子孫がいなくなったので、応神天皇の五世の孫といわれる人を越前から連れてきて、継体天皇にしたという、古代史の仕掛人の一人である。
筑紫君磐井の墓
筑紫君磐井の墓と考えられている岩戸山古墳
郷土の英雄「筑紫君磐井」を称える岩戸山文化交流館
入国の翌527年には「磐井の乱」が起きた。
ヤマト王権のトップとなった継体天皇は新羅阻止のため、近江毛野(近江国の豪族)を朝鮮半島に派遣したが、筑紫国造の豪族・筑紫君磐井がこれを阻止しようと挙兵したのだ。
結果ヤマト王権は乱を平定、九州支配を進めた。
福井に継体天皇を訪ねる
福井に継体天皇を訪ねる
継体天皇を足羽山に訪ねる
越前市花筐公園に立つ岡太神社。
皇子が池
大迹の王と(継体天皇)目子姫の子、勾大兄の王子(27代安閑天皇)・日隈の高田王子(28代宣化天皇)ご誕生の折、この池の水を産湯に使ったと伝わっている。
社伝によると、当社の勧請は、男大迹皇子(継体天皇)が御潜龍の折、当地の水害を煩慮なされて水路をお穿ちになり、九頭竜・足羽・日野の三川を開かれた。
このとき、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀されて、岡太神社と号して祈誓し賜うたという。
継体天皇石像 福井市足羽山公園
「継体天皇は御名を男大迹皇子と称し、御即位に至るまで数十年間当国越前に潜龍ましましたが、その間越前平野の治水を講じ、笏谷山の石材採掘を勧めるなど、民治に深く意を用いられたので、国人長くその御事績を景仰している。
日本最古の現存天守 丸岡城
石瓦が葺かれた、日本最古の現存天守 丸岡城
丸岡の近くの古墳から出土した石棺。
丸岡は継体天皇発祥の地で、城のある丘は第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられています。
古くは、「麿留古平加(まるこのおか)」と呼ばれ、それが「丸子の岡」となり、やがて丸岡に転じたとされています。
だから、椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるという言い伝えです。
勝山弁天桜も雪の中
勝山弁天桜も雪の中
継体天皇穂訪ねる福井の旅も終わりに近づいています、彼が治水に苦心したという九頭竜川を眺めながら感慨に浸る。
古墳の町 上中まで歩く
古墳の町 上中まで歩く
ここからの出土品は、画文帯神獣鏡や馬具など、全国的に見られるものとなっており、ヤマト政権の介入を古墳の形態と出土遺物からも読み取ることができる。
今城塚古墳(大阪府高槻市)に近い梶原1号墳からは、剣菱形の馬具が発見されており、十善の森古墳や丸山塚古墳(ともに福井県若狭町)からも類似したものが発見されている。
また、6世紀前半から中頃に築造された、下船塚古墳(福井県若狭町)などの埴輪は、尾張地方の古墳と類似しており、継体朝との関連が推測されている。
今城塚古墳古代歴史館 訪問記
継体天皇の真の陵墓?高槻市・今城塚古墳古代歴史館 訪問記
真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。
しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。
崇峻天皇弑逆事件
崇峻天皇弑逆事件の謎
ヤマト建国を左右したのは、日本海(出雲・蘇我氏)、瀬戸内海(吉備きび・物部氏)、東海・東国(尾張氏)であった。
勝者は瀬戸内海であり、日本海と東海は、敗者の側にまわった。
ところが六世紀、彼等は復活したのだ。
七世紀、藤原氏の祖の中臣鎌足は、継体天皇を後押ししていた勢力をなぎ倒し、藤原氏繁栄の足がかりをつくった。
アクセス
電車 JR摂津富田駅または阪急富田駅下車
市営バス JR摂津富田駅より奈佐原行き「今城塚古墳前」徒歩2分、または関西大学・萩谷・萩谷総合公園行き「氷室」徒歩2分
JR高槻駅北より5番のりば<平安女学院>または<関西大学>行きで、「清福寺」徒歩約10分
徒歩 JR摂津富田駅より約25分
※推奨ルートを通ってお越しください。詳しくは、下のリンクページをご覧ください
いましろ 大王の杜 JR摂津富田駅から徒歩での推奨ルート
お車 国道171号「今城町」の交差点を北へ、約800メートル「清福寺」の交差点を左へ、3つめの信号を左折今城塚古代歴史館駐車場(無料)約35台分
※できるだけ環境に優しい公共交通機関をご利用ください