春分の日を境に急転直下春が来た
春分の日を境に急転直下春が来ました。
あちらでもこちらでも春の使者の訪れ。
今年も緋寒桜が咲いた
毎年、春の使者のように訪れる住之江公園のカンヒザクラ(寒緋桜)
ことしも咲いたカンヒザクラ(寒緋桜)住之江公園
今年も市民の目を楽しませてくれました。
「春季皇霊祭」と呼ばれる行事に由来
国民の祝日の一つである「春分の日」。
馴染みがある日のはずなのに、何となく春が来た? くらいのイメージで、具体的にはどんな日なのか……と思う方も多いのではないだろうか。
昼と夜の長さが同じになる日
2025年の春分の日は、3月20日(木)。
「春季皇霊祭」と呼ばれる行事に由来。
また春分の日は、もとは旧法にあった「春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)」から改称されたとある。
春季皇霊祭は、現在でも行われている宮中祭祀の一つ。
毎年2回、春分の日と秋分の日(秋季皇霊祭)に斎行される大祭だ。
アオサギの子育て
住之江公園には沢山のアオサギが生息しています、そしてここはその子育ての場所なのです。
アオサギの子育て
毎年多くの子育てが行われます。
阿武松部屋(おうのまつべや)が宿舎を設営
今年はもう一つ名物が増えました。
今日は、大相撲春場所の千秋楽ですが、護国神社の境内に、阿武松部屋(おうのまつべや)が宿舎を設営しています。
阿武松部屋(おうのまつべや)の宿舎。
護国神社について
護国神社は、住之江公園の南西の低湿地を、府民のべ約36万人が勤労奉仕で約2年かけて埋め立てて、内務大臣指定護國神社として創建された。
1940年(昭和15年)5月4日に鎮座祭が行われたが、人材・資材不足のため正式な社殿の建築をすることができず、仮社殿での鎮座であった。
その後に正式な社殿の造営を行う予定であったが、大東亜戦争の激化や敗戦後の混乱により着工出来ないままであった。
戦後、GHQによる神道指令の影響下における存続対策として仁徳天皇を祀り、「浪速宮(なにわぐう)」と称していた。
また、神社本庁の別表神社に加列されている。
社名は、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)に大阪護國神社に復称している。
こうした経緯から奉安殿に仁徳天皇を、その相殿に東郷平八郎を遺髪と共に祀るようになった。
1960年(昭和35年)に造営奉賛会が結成され、1963年(昭和38年)春に社殿が竣工し、5月29日に遷座祭が行われた。
昭和35年に至り「造営奉賛会」が結成発会となり、府下十万余のご遺族、7百万府民をはじめ、官公財界の協賛を仰ぎ昭和38年春、社殿はめでたく竣工し5月29日、浄闇裡に荘重神厳なる本殿鎮座祭が斎行された。
昭和45年には昭和天皇、香淳皇后に、今上陛下、皇后陛下には昭和53年に御親拝を仰ぎました。
2009年(平成21年)10月24日に特攻勇士の像が建立された。
大阪護国神社に植えられている桜の大半は、ソメイヨシノですが、鳥居の近くには早咲きのカワズザクラも植えられ、3月初旬から、桜花を楽しむ事が出来ます。
今年も命の桜が咲きました 大阪護国神社
主祭神 – 大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5千余柱(正確には105,665柱)
参道の左右にある桜の林の中には大阪出身者で構成された歩兵第8連隊をはじめとする陸軍歩兵連隊、海軍、予科練などの忠魂碑が多数置かれている。
司馬遼太郎の「ある運命について」を読んでいて、その中に「昭和五年からの手紙」にこの「またも負けたか八連隊・・・」についての記述がある。
江戸時代の藩制に組み入れられなかった京・大坂の風土は封建的な影響が薄く、軍隊の中でも組織的な堅牢さと統率性がとれにくく、相対として兵隊の強さを発揮できなかった庶民性がうかがえるのである。
私は「またも負けたか八連隊・・・」と言われていた事を大阪人として、決して不名誉なこととは思わない。
大阪らしい風土として、むしろ誇らしい気もしているのだ。
「ある運命について」の中に八連隊は弱くはあったが兵士の偵察能力は全国一だったともあった。
そのことも大阪人として頷けて、八連隊というのが、よく大阪をイメージさせる軍隊であると思うのだ。
毎年参道にて「同期の桜を歌う会」が開催されている。
日本100名城巡りを始めて足かけ3年、足でたどった 名城を訪ねる旅
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